【Part2 「なんだろう、この違和感は」】
〇福田和也 それは何でしょうか。
●柳美里 何でしょうね……。
〇福田 そのとき茫漠としていたからなのか、それともよく言われるような記憶が何かの形で抑圧されてしまっているのか。
●柳 後者だと思います。私はものをよく覚えている方だと思うんですが、同じ経験をしたことがあって、母と一緒に父の家を出たときのことを……。そのときのことは戯曲やエッセイで創作して書いているんですが、本当のところは思い出せないんです。だから書くたびに違ってしまうんです。
夏だったのか、冬だったのか、夕方だったのか、深夜だったのか、荷物を置いていったのか、乗せていったのか、1ヶ月ぐらい前に知らされていたのか、直前に知らされたのか、何色の車に乗って、その車を運転していたのが誰だったのか。
車がどこに到着し、どういうマンションで暮らし、部屋はいくつあったのか、何故、車に乗ったときはきょうだい4人だったのに、母のもとで暮らしたのは私と末の弟2人だけなのか……、小6から中2までの期間ですから当然覚えているはずだし、学校で起こったことは思い出せるんですが、家の中でのことはまったく思い出せません。よくある言い方ですが、真っ白なんです。その「白い部分」とどう向き合えばいいのか……。
〇福田 でも、客観的に見ると、いまはわりと落ち着かれた状況ですよね。『命』で描かれているようにずっと生活でいろいろなことがあって、『生』ではカタカナで書いてある「ナゼワタシダケガコンナメニ!」というような、レイプ未遂まであった。そういった時間にくらべると、いまはずいぶん生活が安定している。それがむしろ問題なのでしょうが。
●柳 そうですね、その落ち着きと安定に違和感が……。いまの生活は、酒は飲まないし、タバコもやめたし、旅にも行かないし、外食も半年に1度するかしないかだし、男性とも付きあっていません(笑)、遊びというのがまったくないんです。それこそ修道僧のような生活で、1日の時間割も息子のスケジュール優先で表にして決めています。
でも、それは苦痛ではないんです。遊びたいという欲求があるかというと、ないんですね。親としての大きな義務を負っていることもまったく苦ではないんですけれども、「なんだろう、この違和感は」という気がします。
〇福田 東さんの発病と丈陽君の誕生が重なって、普通の人が一生に抱えるトラブルが一気に全部きて、本当はとても作品を執筆できないような状態ですよね。それを戦っていらっしゃって、それがいま何らかの形で一応整理がつきつつある。
もちろん書くことが終わらなければ、本当の整理はつかないでしょうが、その中で一種の落ち着いたというよりも、柳さんがこれまで生きてきた戦っている時間と大きく違うので、その中で働いていた認識がいまは逆に動き出してしまったのかもしれませんね。
●柳 さきほど挙げられた、強制収容所から解放された石原吉郎の『日常の強制』というエッセイを読んでみたい。感覚として近いかもしれません。
何ヶ月も苦しみましたが、最近はこういう時間もあっていいのではと割り切れるようになってきました。このままずっと書けなくなると困りますけれども。
スランプ中の唯一の救いは、子育てです。子育ては、おもしろいです。責任の重さと同じくらい。
〇福田 容赦なく責任がありますから。
●柳 今ちょうど言葉を覚えはじめていて、なんでよりによってこの言葉をというのが(笑)。
〇福田 変な言葉を覚えますからね。
●柳 今は4つの言葉を繰り返し声に出しているんです。「あお」と「どうぞ」。あと「タッチ」、立つではなくさわる方のタッチ。それと、いつも一緒にいる私を呼ぶよりも、たまに訪ねてくる私の母を呼ぶ頻度の方が多いんです。いつも家の中を「ばーば、ばーば」と言って半ベソで捜しまわっています。でも、なんでこの4つを選んだのか。
〇福田 言葉として、みんな位相が違う言葉ばかりですよね。
●柳 私がよく使っている言葉でもないですからね。空や信号を指差しては「あお」と言っています。
〇福田 「あお」は認識ですよね。「どうぞ」というのはコミュニケーションなのかな。「タッチ」は行為。
●柳 「ばーば」は名詞ですね。母は、あんまり「ばーば、ばーば」と騒ぐから、「この子と二人きりになる運命なのかもしれない」と不吉なことを言ってますけど(笑)。
〇福田 言葉を覚え出すと、違った意味でおもしろくなってきますね。
●柳 言葉以前は、犬や猫をかわいがるのと似ていた部分もあるのですが、言葉をしゃべり出した途端にまったく違ってきますね。
〇福田 うちの子はひどくて、初期に覚えた言葉はたぶん「いるす」(居留守)という言葉。
●柳 ああ、父親が居留守を使うから(笑)。
〇福田 「いるす、いるす」とか言ってね。「嘘をついちゃいけない」と教育できない(笑)。でも、子どもと2人きりでいるのは、もちろん孤独ではないんだけど、孤独と違う変な孤立感というのがあるでしょう。それはないですか?
●柳 うーん……、そうですね。今の時間は後で語り合うことができない時間ですよね。彼の記憶には残らないわけですから。私が語りかける言葉は、彼の中に集積されていくけれども、記憶には残らない。
共有しているけれど、共有しつづけることができない時間のなかに身を置いているのは……、なんと表現すればいいんでしょうか……、きっと福田さんがおっしゃっている孤立感とは違うかもしれないけれど……。
隠遁というか、蟄居していますからね、いまの私は。誰からも連絡が来ない日が多いですから。
〇福田 電話もぜんぜん来ない?
●柳 電話も手紙もファックスもメールも来ないという日の方が多いです。たまに来ても、連絡をくれる人はいつも決まっていて、全部で10人いません。
〇福田 今は書く以外の仕事はぜんぜんされていないんですか?
●柳 まったくしていません。このままだと鎌倉の家に引きこもりそうだから、来年は意識的に人と会わなければ成立しない仕事を受けるつもりです。でも、誰の記憶にも残らない時間を過ごすというのは、経験としてはおもしろいですね。息子と夜二人で寝ている時間というのも、甘美だけれど怖ろしいんです。息子が夜中に何度か起きるのですが、私の顔を暗闇のなかで確認するんですよ、撫でくり回して。
〇福田 おもしろいですね。
●柳 手探りで寄ってきて眉、目、鼻、口、耳と順番に。こっちは眠っていますからね、怖いですよ。いきなり手が伸びてきて顔を。
〇福田 起こそうとしているのではなくて?
●柳 そうではなくて、一通りさわって、あるということがわかると眠るんです。だから、顔のパーツについてはかなり細かく認識していますね。「まつげは?」「眉毛は?」と訊いても、「歯は?」「舌は?」と訊いても、ちゃんと指でなぞったりつっついたりすることができます。
よく赤ん坊はおっぱいをさわりながら眠るというけれど、息子の場合は最初から顔でした。鼻と鼻をくっつけて、息子が私の顔を抱いて眠るんです。私はまさしく目の前で瞼が閉じていく様を見守っています。
〇福田 あれはどういうわけか、一人ひとりぜんぜん違いますよね。遺伝なのかどうか、本当に性質とか先天的な要素が強いなと思いますね。絵本とか読んで聞かせたりしないんですか?
●柳 しますよ。数えたことはないけど、200冊は越えていると思います。福田さんは、読んで聞かせました?
〇福田 聞かせました。下の子のときには飽きちゃってましたけど。こんなことを言うと怒られる。
●柳 どういう絵本をセレクトしました?
〇福田 福音館一辺倒でしたね。
●柳 福音館はいい本が多いですよね。
〇福田 言葉と絵の品がいいので、福音館ばっかり買っていましたね。中川李枝子は天才じゃないかと思っていますね。
●柳 絵本や児童書は、私の本より増えるでしょうから、今度引っ越すときはたいへん、あっもう引っ越さないのか(笑)。でも、やっぱり定住は私の性格には合わないんです。これまでも定住というのは経験がなくて、一応部屋は借りていたけれど、温泉宿やホテルを転々としていましたし、私の両親も祖父母も引っ越し好きというか、一種病的に引っ越しばかりしていました。だけど、息子には定住をさせてやりたい。どうしても息子は根付かせたいんですね。