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Part1
日常の時間、回復の手続き

Part2
「なんだろう、この違和感は」

Part3
家族は創るもの

Part4
「見張り塔から」をめぐって



 柳美里
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 福田和也
 Profile
title
portrait
柳美里 vs 福田和也  (page 1/4)
2002.01.07

300kbps ブロードバンド映像、公開中
パソコンのモニター画面いっぱいに動画を表示して
テレビのようにご覧いただくことが可能です。(実写画像)



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【Part1 日常の時間、回復の手続き】
福田和也 『生(いきる)』の話が時間的にできなかったので、最後にちょっとさせていただきたいと思ったんです。今日現在で発表されている『命』『魂』『生』の三つを、改めて全部読み通したんですけど、僕の印象では『魂』が一番好きです。『生』は随所にすごいところがあって、たとえば「夜は桜で満開。目を瞑(つむ)る。死が死んでしまえばいい」という場面などは本当にすごいと思いました。

 ただ、率直な感想を言うと、やはり通して書いてしまったしんどさがすごく出てしまっていて……。僕がもしもこの連載の編集者であれば、もちろん『週刊ポスト』に載るという前提があるから実現できるかは別として、『生』は、大岡昇平が『俘虜記』でやったように一つひとつ短編にしていって、それぞれをがっちり書き込んでいくという形でやるというか、本当はそのように再編集した方がいいのではないかなという感じがしたんですね。

柳美里 なるほど。

福田 逆に言えば、そういう形で読み直してみたいという印象を受けました。作品の言葉がつくりだす速度と、柳さんの精神の速度とがぎくしゃくしている感じがあって。もちろん、パッとある瞬間に美しく接合するのですが、その問題を感じましたね。

 こう書こうという意識が強すぎたのかもしれません。文章の呼吸が自然にできず、どこで息をつけるのか、探しながら書いていた、というか書きながら探したので、実際に書いたものと、書こうとしていたものがずれてしまったのかも……。

福田 『魂』はそこがすごくぴったりしていたので、通して読むと『魂』に慣れてしまっているから特にそう感じてしまうのかもしれないのですが……。そこがすごく気になりましたね。あえて『魂』と変えようとされたのでしょうから、変えるということ自体は成功したと思いますが。
 もちろん、第4部を書かれて、それを読むとまた『生』は違ったイメージで見えてくるかもしれない。その可能性もありますけれど。

 第5部は、おっしゃられたように、短編が連なっていく形にしようと思っているんです。『命』は8ヶ月間、『魂』は8週間、『生』は27日間と、どんどん作品のなかの時間が短かくなっているんですが、第4部の『声』で49日間、第5部の『死』は1年間と描く時間を長くしていこうと思っているんです。

福田 この作品は私小説と言われていると思いますが、この長さでこのように書いてきた私小説はそんなにないわけです。たとえば徳田秋声の『仮装人物』も長編ですけれど、とてもこれだけのボリュームはない。そういう意味では流れている時間性のあり方とか、その持続にたいする言葉による微分の仕方というのは、今までの日本文学が体験していなかったものだと思います。

 江藤淳さんが『妻と私』を書いたとき、何よりも驚いたのは中に書かれていたことよりも、あの時間感覚ですよね。「生と死の時間」ということを書いていて、あれはすごいなと思ったんです。もちろんそれと柳さんの作品は違うけれども。「生と死の時間」と書いたことを、「この時間は漱石も鴎外も知らなかった時間だ」と評したら、「それを指摘してくれたのは君だけだ」という言葉をいただいたのですが。やはりそういう感じの時間というのはあるんだろうなと思いましたね。

 そうですね。いま次が書けない……。書き始めたのですが、1行書くのが辛くてどうしようもない。東さんの死後の時間を書かなければならないことが……。

福田 こういう言い方は安直ですが、最後に東(ひがし)さんが亡くなるシーンはすごくさらりとお書きになりましたね。そこが逆に凄みがあったし、あそこで日常生活の中に流れているんだけれども、日常生活ではない時間が、パッと切られた。そこから日常の時間をどのように取り戻していくのかというのは、やっぱり辛いでのしょうね。

 いまも、必ずしも日常の時間を取り戻せたわけではないです。ですから、取り戻せるのか、取り戻せるとしたらどのように取り戻すのか、というところまで書かなければいけないと思ったときに、やっぱり相当しんどいんです。

福田 ぜんぜんタイプは違うのですが、ジャン・ケーロールというフランス語版の『夜と霧』のナレーションを書いた作家――ドイツ語版はパウル・ツェランが書きましたが――彼自身も収容所経験がある人なんです。彼の代表作『他人の愛に生きん』は収容所から帰ってきて日常生活に入っていくまでの過程を書いたものですが、これがすごい。

 最初は詩しか書けないんです。戦前は文学者として中堅で活躍していて、戦後アウシュビッツから帰ってきて書きはじめると、最初は断片的な詩を書いていたのですが、そのあとで『他人の愛に生きん』という小説を書くのです。が、これは3部構成になっている。

 第1部は人称がないんですよ。話者が明確ではなくて独白みたいなものがずっとあって、そのあとにやっと1人称がくるんですよ。1人称で自分で語りだして。その中味もホロコーストを扱っている文学の中で型破りで、アウシュビッツに行った連中は当たり前だけどすごく親切にされるんですよね。親切にされて一流ホテルに泊めてもらって、恋人がアウシュビッツで死んだというような女性が来て、すごく優しくしてくれたり疑似恋人になったりとかして増長してくるんですよね。

 バスに乗っても、「俺はアウシュビッツ帰りだ」とか言って席を譲らせたりとかという偽悪的なエピソードなどが随所に入っていて、それから3人称になって、やっと世界に帰っていくという形でケーロールは自分の体験を書いていて。ものを書いていた人間がそういう体験をしながら回復していく。ケーロールのような形の手続きを踏んでいかないと、戻ってこれないのだろうなと思わせるのです。

 フランクルの有名な『夜と霧』もいいテキストで、しかしあのように距離感をもって書ける人というのはそうはいない、というよりやはり学者ですね。フランクルは心理学者としての客観性をもっている人で、文学者はおのずと違うとも思う。

 問題は、日常の時間に戻りたいのか、と自分に問うたとき、戻りたくない、あの時間のただなかにいたいんです。けれど、東さんが亡くなった2週間後に町田康さんと町田敦子さんに預かってもらっていた息子を引きとり、その日から乱れと狂いが許されない日常の時間を過ごさなければならなかったわけです。回復の手続きを踏む時間がなかった。そして、本心では回復したくないんです、きっと……。

福田 石原吉郎が『日常の強制』というエッセイを書いていますね。彼はラーゲリ(ソビエトの強制収容所)にずっといて、そういう人は後に2つのタイプに分かれるのですが、片一方のタイプは帰国するとソビエト、スターリニズムを告発するわけです。ほとんどがそのタイプ。でも石原吉郎は告発しないわけですよ。誰かを指さして裁けるような出来事ではないし、自分は告発者という立場にたつことで、自己を確立したくない、と。

 自分にとっての強制収容所体験は誰かを名指して、責めてすむようなものではない、と。自分がそこにとどまり続けることだけが、自分にできることだと彼は言う。日本に帰ってきて電車に乗ったりしていると、だんだんに日常性が自分に強制されていく。そこにいたという感覚が失われていく。それが非常に自分にとって何よりも辛いことだということを書いていますね。

 東さんが死んだ後を書き始めて、自分でも思いがけず苦しくなってしまったんです。書けると思っていたんですけど。
 それから、記憶がない時間が多いんです。亡くなって、骨を持ち帰って、納骨するまでの49日間……、それまで生きていた、ふたりで病室にいたときのようには思い出せないんです。私のそばにいた何人かに話を聞いて、「遺体がエレベーターに入らなかったので、ストレッチャーをたてにしてなんとか入れた」と言われれば、おぼろげには思い出せるんですが、ほんとうにおぼろげで……。

(Part2 へ続く)

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