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Part1
保田與重郎を書いた理由

Part2
『地ひらく』における文章の歩幅

Part3
一緒に足音をたてながら

Part4
『江藤淳という人』、そして「自殺」

Part5
戯曲形式による批評の可能性



 柳美里
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 福田和也
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portrait
柳美里 vs 福田和也  (page 1/5)
2001.12.10

300kbps ブロードバンド映像、公開中
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【Part1 保田與重郎を書いた理由】
柳美里 今回も私がインタビュアーをさせていただきます。今回は昭和という時代と相関する3人の人物を評論した3冊を中心に、お話をおうかがいしたいと思います(注:『保田與重郎と昭和の御代』『地ひらく』『江藤淳という人』)。

 まず『保田與重郎と昭和の御代』ですが、福田さんが『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』のなかで「旅行をする時に、その土地にちなむ、文学作品、あるいは出身者などの伝記、歴史書などを読む」とおっしゃっていたので、8月に祖父の足跡を追うために渡韓したんですが、韓国の国定歴史教科書と『白凡逸志』という金九の自伝を持って旅立ったんです。

 でも読んだのは『保田與重郎と昭和の御代』だけでした。保田與重郎は1910年に生まれて1981年に亡くなっていますが、祖父は1912年生まれで、没年が1980年、ほぼ生きている時間が重なっているんです。そういう思いを抱きながら読みました。
 ご自分としては、この本をどのように評価されているのですか?

福田和也 前回取り上げていただいた『奇妙な廃墟』のモチーフを、日本に置き直して書いたのが『日本の家郷』です。そのあと、自分にとってはとても重要な『日本人の目玉』があるんですが、そこに行くまでに、やっぱり一度保田與重郎という人を通らなければ行けなかったんですね。先達である批評家と対決するということが、必要だったんです。

 保田與重郎が気になったというのは、いつ頃なんですか。

福田 『奇妙な廃墟』の仕事をしながらシャルル・モーラスを読んだとき、「この詩に対する考え方は後鳥羽上皇に非常によく似ている」という気がして。それで後鳥羽上皇の本を何か読もうと調べたとき、保田の『後鳥羽院』が一番よかった。

 正直言うと、日本の批評家にはほとんど関心がなかったんです。江藤淳さんをちょっと読んでいたくらいで。私が学生の時代は柄谷、蓮實さんが全盛の時代でしたが、フランスの現代思想をそのまま紹介しているだけで、それなら原書を読んだほうがいいですからね。

 保田はハイデガーあるいはモーラスと同じようなことを、当時すでにやっていて、これはすごいなと思った。それで興味を持って読み出したというのが、まず一つありますね。あとは、ちょっと長い話になっちゃうんですけど。

 是非、お聞きしたいです。

福田 日本の戦後文学を考えたとき、たとえば戦前から戦後を通じて人気作家だった獅子文六が次のようなことを書いています(『娘と私』)。獅子さんは中流の普通の少年が戦う義務に目覚めて海軍兵学校に入り、真珠湾攻撃で特別潜航艇の艇長として戦死する、という『海軍』のような小説で戦争中大変な評判をとっていましたから、戦後占領軍からパージの対象者として、追放仮指定をされるわけです。

 ところが、獅子さんはそのころ朝日新聞と毎日新聞がローテーションで連載小説をもらっていた状態なので、彼が書けなくなると困るということで、新聞社の政治部の記者がGHQの高官や外務省の間で根回しをするわけです。「私は心ならずも軍国主義者に強いられて、こんな小説を書きました」というような文章を提出して、それで追放を免れている。

 それはもちろん大嘘なのです。でもそういう事実があるということを書き残したのは獅子文六だけだった。石川達三も丹羽文雄も、仮指定を受けたあらゆる文学者がやっているはずです。正直に書いているだけ、獅子文六は尊敬できる。

 日本の文学者でドリュとかブラジヤックみたいに、まあ自殺したり殺されはしなくても、敗戦後自らを貫いた人間はだれかいないのかと思ったとき、保田與重郎だけは追放指定を甘んじて受けて、筆を折って桜井に帰った。

 日本で文学をやっている者として、保田がいなかったらやっぱり辛いだろうなという気がするんですよ。自分の説を曲げないで、その態度も変えなかった人が一人でもいてくれたというのは、ありがたい。
 その二つですね、保田與重郎に入っていったのは。

 「一見すると保田與重郎だけは、戦争にも拘わらず文学者として全く変わっていないように見える。だが逆に云えば、保田與重郎こそが変わった」とお書きになられていますね。「故郷への帰還は、南朝の吉野還幸にも似た、敗戦後のパルチザンであった」とも。

 保田がひとりで闘った彼の故郷桜井にも、福田さんは足を運ばれていますね。お書きになられていますが、古事記、万葉に謳われた山々に囲まれた「日本という国の発祥の場所」を保田は耕していたんですね。

福田 はい、かなり開発をされましたが、三輪山の辺りはまだまだ残っています。

 それから、この作品も極めて小説的ですね。「今こそ、私たちに、遙かなるものが、反りつつある。/遙かなるものの大いなる面影が、私たちに蘇りつつある。/それは傷つけられもせず、豊かにもならず、深い憂愁の様に明るく、黙って静かに、あたかも昨日訪れたばかりのように、私たちの戸口に立つ」という書き出し、「風が吹いた。/逆巻く音に脅かされて、はじめて背後に大きな欅が立っていることに気づいた。/欅は、鮮やかな程に黒い影を、じわりと私の足元に伸ばしていた。/誘うように」というしめくくりひとつとっても。

福田 保田自体がたくらみの深い書き方をしていますから、保田に対抗するにはそうしないとできないという感じがあったんです。

 この本は韓国の人に読んで欲しいなと思いました。あの時代が論じられるときに、韓国人も日本人もあまりにも一面的で単純に過ぎると思います。大陸の軍病院のベッドの上で看護婦の号泣を聞いて敗戦を知った保田與重郎の「血も骨も我身に背く思ひ」に分け入る覚悟を持たなければ、あの時代に近づくことはできないと思います。

 実は、保田の戦後の主著である『現代畸人傳』は神田の古本屋で見つけて、17のときに読んでいるんです。実家を探せば出てくると思うんですが、かなりノートに書き写した記憶があります。

 今回福田さんの御著書から書き写した保田の文章は、「その淺い眠りのさめぎはに、私は部屋の中央におかれた花瓶の、今朝がた看護婦の誰かが插していつた向日葵の大きい花を、生々しいものに眺めた。切花が生きてゐるといふ印象は、この夜かぎりの、私のたゞ一度の不吉なむしろ不幸な記憶である。私はとつさに眼をそらしてゐた。しかしわが眼をうつした床の上には、その花の影が、まさしく黒々とうつつてゐた。その影をうつろに見てゐるうちに、形容しがたい怖しさが、初めて私の心を占めてゐるのにきづいた。一輪の花の描く影に、私はかつて思ひもよらなかつた無限に深い闇を、ありありと見たのである。その闇は誘ふ闇であつた。しかもその中へ入つてゆくことが、何でもない自然のやうにも思はれた。それは死とか生といふ判斷の先行せぬものだつた」(注:原文は旧字旧仮名)という文章です。

 昭和に生まれて、平成を生きている私たちが、この向日葵の花影の怖しさを感知できるのかどうか――、すくなくとも私はその闇に目を疑らしつつ書きたいと思いました。

(Part2 へ続く)

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