i-mediatv.co.jp banner justice
banner
banner
banner
banner
justice_top


Part1
『作家の値うち』と『奇妙な廃墟』

Part2
息を詰めて読んだ『日本人の目玉』

Part3
福田さん、バイ・ガイドより真の批評を

Part4
「緊張ある批評」から得た入り口

Video
動画はこちら



 柳美里
 Profile

 福田和也
 Profile

title
portrait
柳美里 vs 福田和也
2001.09.03

【Part3 福田さん、バイ・ガイドより真の批評を】
柳美里 話を引き戻しますが、だから、納得できないのです。「弁明か、それとも新たなる挑戦か?」というコピーが帯にある『「作家の値うち」の使い方』を読んでも釈然としなかった。『「作家の値うち」の使い方』に収録されている西部邁さんとの対談を読んで、読み物としてはおもしろい対談でしたが、西部さんが納得したのかどうか……。(編集部注 :「小説に点数はつけられるか」初出は『文學界』平成12年8月号)

福田和也 してないですよ、それは。

 そうでしょうね。やっぱりひとりの評論家が両方を書くことはできないと思うんです、パーカーとピュイゼとを。できたとしても、やらないほうがいい。「私の生には何の意味もない。私はいつ殺されても仕方がない。実際いつ死ぬか解らない。人を殺すかもしれないし、殺すだろう。にもかかわらず私は生きることに、あるいは己に執着し、そこに何かの意味を、温かさを、美しさを見たと思い込む。(中略)その幻を、実体を、私は言葉と呼び、サンマイの上でのその笑いを、私は仮に批評と名づける(『甘美な人生』)」とまでお書きになられている福田さんがなさる仕事ではないと思うんです。パーカー流では、作家とも、編集者とも、読者とも、殺すかもしれない、殺されるかもしれないという緊張した関係を持ち得ません。

福田 『日本人の目玉』はピュイゼ流で、『甘美な人生』の冒頭に書いた「批評私観」手法の最たるものです。西部さんとの対談を読んでいない読者のために少し説明を足しておきますと、対談の中で西部さんが要約してくださっているように、「批評私観」で「批評とは、作品に評点をつけるなどということではない」と書きました。ワインの批評を例に挙げて、ロバート・M・パーカーJr.の100点満点のワインに対する評価方式と、ピュイゼという人のワインの批評の仕方と、二つのスタイルを紹介しています。

 ピュイゼがやったのは、友達から芳香の強いチーズをもらった、そのチーズに合うワインは何かと考え、努力してようやくあるワインに辿り付いた、その過程においてワインを語り評価する、価値と空間をつくるというふうな批評の仕方です。パーカー流は言うまでもなく消費者向けの買い物ガイドという、いわば外圧的な枠組みの批評の仕方で、自分の批評はそういう方式を取らない。むしろ枠組みそれ自体を問うというのが批評の根本精神なのだ、と書いたのです。

 しかし、『作家の値うち』はパーカー流の最たるものですからね。それを西部さんが批判して、私なりに回答しているわけですが。
 ただフランスでピュイゼ流が成立するのは、フランス人の読者はそれを喜ぶからですよね。そのワインがお買い得かどうかというよりも、ある種どうでもいいご託をちゃんと展開してくれることを読者は求めていて、楽しみもする。ワインと酒なんてそういうものだと思っているから。そういうお客さんがいるかどうか、マーケットがあるかどうかということでしょうね。もちろん逆に、芸でそれを納得させられるかということだとも思いますが。

 私が福田さんの担当編集者だったら、自分の存在を賭けて、マーケットとしても成立させてみせますね。
『奇妙な廃墟』と『日本人の目玉』を読みながら、ふと思ったのは、もっと低いんじゃないかと、点数が。

福田 何のですか?

 『作家の値うち』に取りあげられている作品の。

福田 あぁ、どうなのかな……。

 ご自分の文章のレベルから考えると……。

福田 いや、そんなことはないですけど……。

 584作中414作が50点以上、<読む価値がある作品>ですからね。でも、現在の日本文学を肯定しようとする福田さんの姿勢には賛同します。以前、ある酒場で飲んでいたときに、自称文芸評論家の読み「すが」秀実という人が入ってきたんです。入口付近に座っている大学生らしき若者に「フローベルを読んでいればいい。今の小説で読むに値する作品なんてない。日本文学は中上とともに死んだ」などと説教し、そのうち私に気づいて、「あんたの作品は1冊も読んでいないけど、顔を見ればくだらない小説を書いているということがわかる」と言い放ったので、「あんたの顔は相当ひどいけれど、あんたの作品をくだらないかどうか判断するときは、必ず読む」と言い返したんです。そしたら、「なんでおれがくだらない小説を読まなきゃならないの? そんな時間はないんだよ」とまたフローベルの話です。

 この人の言動で他の評論家を一括りにしてはいけないのですが、日本文学は衰退した、死んだ、という割には、どの評論家も読んでいない。ですから、700点もの作品を読んで、「たしかに優れた作家と優れた作品は存在している(『作家の値うち』)」と書く福田さんは、誠実な批評家だなと思いました。

福田 これはこれで、ちゃんとやろうと思ったんですよ。今は本がいっぱいあって、どの作家を読んでいいのかわからないとか、その作家のどれを読んだらいいのかわからないという人たちがたくさんいるのは事実ですから。その案内になればと思ったんです。書店さんが喜んでくれたというのは、そこなんだと思うんですよ。でもじつは、書店さんが怒るんじゃないかと思っていたんですけど。僕が一番怖かったのは、じつはそこなんですよ。

 書店が怒るんじゃないかと?

福田 要するに、彼らの並べた商品にケチをつけているわけだから。

 そうですね(笑)。

福田 でも書店さんが一番好意的だったんですよね。

 でも、納得できない。私の小説の点数が低いからじゃないんですよ(笑)。小説に点数をつけるなんて邪道だ、とも思いません。福田さんが『甘美な人生』の冒頭でお書きになられているように、パーカー流が<批評>たり得ないのは、「数字を使ったりデータを山盛りにしているからではない。また『文学』的でないからでもない。(中略)評価や記述が、最終的にワインの消費者のために書かれているからだ。いくら表現が文学的であり、醸造や熟成の理論が盛り込まれていても、バイ・ガイドはバイ・ガイドでしかない」からです。これは福田さんがお書きになられたことです。

 私は福田和也にバイ・ガイドを書いて欲しくないんです。福田和也という人が担っているのは、<批評>です。現在、真の意味で<批評>を書くことができる人の顔は他に思い浮かばないけれど、バイ・ガイドを書ける人の顔は何人も浮かびます。私は他の人にもできることを、福田和也にやって欲しくないんです。と力んでしまうほど、『奇妙な廃墟』と『日本人の目玉』は素晴らしかった。

福田 本当に誰も読んでくれない本ですが(笑)、読んでいただいてありがとうございます。でも『作家の値うち』は、数字に一番気を使いましたからね。どうせ数字しか読みゃしないんだろうと思っていましたからね。

(Part4へ続く)

page_jump
1. 2. 3. 4.
動画はこちら→ Video
justice i-mediatv.co.jp