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Part1
『作家の値うち』と『奇妙な廃墟』

Part2
息を詰めて読んだ『日本人の目玉』

Part3
福田さん、バイ・ガイドより真の批評を

Part4
「緊張ある批評」から得た入り口

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 柳美里
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 福田和也
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柳美里 vs 福田和也
2001.09.03

【Part2 息を詰めて読んだ『日本人の目玉』】
柳美里 次に『日本人の目玉』ですが。

福田和也 その本は、僕にとっては『奇妙な廃墟』に続いて大事なものなんですよ。

 ええ。今回、文芸についてお書きになられたものを通読しましたが、中でもこの2冊は飛び抜けていると思いました。

福田 僕は川端康成をやりたくてそれを書いたんです。川端は一番書きにくい作家で、いい評論はひとつもないんですよ。本当に化け物みたいな人です。

 この2冊を読んで、なるべくならこの言葉を使わずにお伝えしたかったのですが、天才だと思いました。『日本人の目玉』は途中で読むのをやめてしまったほどです。今日までに読めてしまう分量だったんですが、あえて読むのを中断し、頭から読み返しました。今回お会いするにあたって、この2冊に対してどのような質問ができるのだろうかと、とても気が重くなってしまった(笑)。福田さんの中には作家になる動機というのはまったくなかったんですか?

福田 高校から大学まで戯曲を書いていたことはあるのですが。『奇妙な廃墟』が出たとき、当時は全然評価されていなかったのですが、江藤淳さんが「おもしろい」と葉書をくださったんです。

 江藤さんはどのような観点でおもしろいと?

福田 特にモーラスについてすごく共感してくださったようです。戦後モーラスが牢屋に入れられ裁判をされたということに関して、日本の占領下での検閲問題の視点から興味を持たれたみたいですね。そんなこともあって、江藤さんが『諸君!』の編集長に紹介してくださったんです。だから、その人生の偶然の順番が違っていたら、もしかしたら小説を書いたかもしれないけれど、でも評論は自分に向いていると思いますけどね。

 私は、評論家というのは小説家になりたかったのになれなかった人で、その嫉妬を軽蔑にすりかえることによって高みに立っていると思っていたんです。けれども、『奇妙な廃墟』と『日本人の目玉』を読んで、福田さんは作家になれなかったのではなくて、ならなかったんだと思いました。書こうと思えば書けるのに、小説は書きたくなかった?

福田 ただ告白すると、このあいだ新潮別冊で三島由紀夫の特集号が出たとき、三島を題材にした戯曲を書いたのですが、あれはおもしろかったですね。誰からも頼まれないから、それ以外はやっていないけれど(笑)。何か頼まれたら戯曲は書きたいなという気はありますね。

 戯曲ですか。小説は?

福田 小説はね、たぶん……。『日本人の目玉』の川端の章を読んでくださるとわかると思うのですが、小説全体に対抗意識はあるのですが、小説でできないところを批評はやるものだとどこかで思っているんです。小説以上に可能性をもったジャンルとして文芸評論を確立するというのが、私の基本的な姿勢なのですが、それを自分として一番徹底的にやったのが『日本人の目玉』なんです。

 これは凄いと息を詰めて読んだのは、「見えない洲之内、見るだけの青山」という章です。「みよしさん」のたんぽぽの葉の絵の描写は、書名を伏せて文章だけ抜粋して読者に見せたら、完全に小説だと思うでしょうね。

 自分が作家であることを離れて、編集者だったらな、という思いがこみあげてきてしまいました。編集者だったら、依頼をして一緒に本をつくることができるのに、と思ったのは、2回目です。10年前に、町田康さんの詩を読んだ時にそう思いました。生きている方では町田さんと福田さんだけです。

福田 その2冊は、一番手間とお金と時間がかかっていて、なおかつ一番売れなかった本ですけれど(笑)。

 売れなかったというのが悔しいですね。

福田 『日本人の目玉』は重版がかかりましたが、それでも本当に……。本人は書いていておもしろかったし、自分にとっては本当にいい仕事でしたから。やったことについては良かったですけれど。

 「みよしさん」の絵のたんぽぽの葉の描写を読ませてください。「水の影から現れた丘のようなシルエットの手前に、それらの赤、青、黄の葉が、小さい鬼のように、あるいは陽気な魂のように、水色の闇の中を、身を捩り、屈するように、また跳ねるように仰(の)け反(ぞ)らせながら、乱舞している」というくだりから始まるところです。その絵を目にしても、こんな描写はできないなと思ったんです。ここだけではなくて、このレベルの表現の連続です。殴られたような気持ちです。
 福田さんは、意識的に評論というジャンルを選ばれたんですね。

福田 そんなに言っていただくと、とても嬉しいのですが。小林秀雄とか江藤淳、保田輿重郎などは、おっしゃったような意識的に評論を選ぶということをやっていたのだと思うんです。彼らの文章は小説とはまったく違う力を持っている。要するにおっしゃったような、小説の寄生虫みたいなものとは別の作品になっています。それをなんとか自分でやりたかったんです。

 極めて小説的でもあるんですよね。

福田 というか、小説的な手法を『日本人の目玉』では抑制しないで使っていますね。描写も使ったし、物語も使っているし、人物も出している。ただ小説は正面から価値観を掲げると、単純なものになってしまいますから。それに対して批評は、価値を押しつけないと批評になりません。そこの違いがあると思います。

 だから『作家の値うち』よりこちらのほうが数十倍、数百倍こたえるんです。一言一言が厳選されているのに勢いがあって、日本語としての多様な形と響きが連なっていて美しい。読みながらずっと、福田和也という人の目玉を意識していました。ご自身が『南部の慰安』の最終章でお書きになられているような、「小説を擁護するのではなく、その解体を推し進め、文藝から近代を解毒し、玉響を文藝に、物語に呼び返」し得る、「文藝ジャンルとしての、批評文の存在の大きさと、圧倒的な優位」を感じていたのです。

福田 普通だったら大岡昇平と洲之内を並べて書いてしまうんですが、担当編集者が洲之内と青山二郎を並べるという贅沢を許してくれたので、いいものになったと思います。普通の編集者だったら、大岡と洲之内を並べろと絶対言うでしょうけど。

 「美」の甘皮を剥いで果肉を貪る青山二郎の目玉と、瞑目した瞼の中で「美」を凝視している洲之内徹の目玉の対比は、身震いするほど見事です。そしてさらに、復員せずに戦争の論理で、服毒自殺を試みて意識を失くした愛人との性交シーンを書いた洲之内と、復員して平和の論理で、人肉を食おうとするシーンを書いた大岡昇平を対比させています。この3人の目玉をこのような形で並べた、福田和也という人の目玉の冷徹さ……というか、このように見ることができるということは、福田さんもまた瞼を深く閉じて見ているのではないか、と思ってしまいました。

(Part3へ続く)

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