【Part5 思念ではなく、肉体で】
●横尾忠則 そうなんですね。僕は魂に接続するものというのは、むしろ心というよりも肉体だと思うんですよ。肉体の習練を通して、初めて魂とか霊性と接触できるのではないかと。心だけで追求していっても、魂にも到達しないし霊性も得られない。我々がここに生存しているのは、肉体があるから生存しているのであって、肉体がなくなったら単に死体ですね。そのときは意識が霊界かどこかへ行ってしまうわけで。
今生きている僕としては、生きているこの世界の中での自分の存在を見つけたいわけですからね。すると、やっぱり身体なんですね。これはなかなかうまく言えないんだけれども。かといって、舞台で身体を動かしている人のあの肉体、あれも確かに肉体表現なんだけど、その肉体とはちょっと違うんですよね。
○福田和也 土方巽さんなどが試みてきた、身体自身を一種のオブジェみたいにしていくのともまた違うという……。
●横尾 それとも無関係ではないと思いますけれども、アーティストとか表現者でなくたっていいわけですね。ごく日常的な肉体という意味なのですね。
○福田 逆に言うと、ステージに乗せられた肉体とか精神というものではなく、一緒に、同時期に生きているほかの肉体に対して直接語りかけていくのが魂であり、芸術のアウラだという風に考えればいいのでしょうか。
●横尾 そうですね。徹底的に肉体を見つめていくというのか、関わっていけばそこにおのずと魂というものが、立ち現れてくるような気がするんですよ。まだ言葉でうまく表現できないんですけれども、とにかく身体っていうことなんですね。だから、自分が経験したり、体験したり、五感を通して得たものでないと信じられない部分ですね。そういう意味では、僕は想像っていうものは断ち切ってもいいんじゃないかと思っているんですよ、自分の中から。
○福田 思念の部分ではなく、肉体の部分で。
●横尾 ええ。先日僕の生まれた西脇という郷里へ、15日間絵を描きに行ったんですよ。郷里をテーマにして。ところが昔僕が住んでいたころの西脇は、もう全然ないです。町が空洞化してしまって、本当に衰退の一途をたどっているという、そういうところなんです。
僕はそこへ行ったら、ついノスタルジックにならざるを得なかったんです。ここには前、自分の家があったんだなとか、そういう風に。同級生が32人も死んでいるのを聞いて驚いたんですけれども。そうやってノスタルジックになっていく。
けれどそれでは甘やかしている自分のような気がして。今回思い切って、僕の過去をここで断ち切るべきだと思った。こんなものを引きずっていたら、進化しないんじゃないかと。過去なんていうものは邪魔になってしょうがないから、西脇に限らず断ち切りたいと思った。
そのために西脇をまず描く。でもノスタルジックな昔の西脇を回想して描くんじゃなくて、今の変わった西脇、それも荒れ果てた西脇を描こうと思った。
それで町に出掛けていったんですよ。そうしたら僕、急に夜の町を描きたくなったんです。それで気がついたのは、僕が住んでいる成城学園というのは、全部区画整理されていてすぐに四つ角があるんです。西脇はどういう都市計画をしたのか知らないけれど、すぐY字型に分かれてしまうんです。真ん中にお地蔵さんがあったりして。
そうやってY字型に分かれるところが、至るところにあるんですよ。僕はそこに立って、ひとつの岐路としてこの場面を絵にしようと思って、写真を撮ったんですよ。すると2つに分かれた道の先は暗闇でね。まるで運命の岐路みたいな感じで。どっちの道に行っても真っ暗なんだなというような。
そういう風景をいっぱい集めて、それで構成して、絵を描こうとしたんです。気がついてみると、そこには僕の想像が一切介在していないんですよ。そのままなんですね。そこを、ただ描きたくなったっていう気持ちのままに描いた。
そのとき「そうだ、想像する必要ないんだ」と思って。今までであれば、僕はそこにちょっと別の要素やイメージを加えたりしていたんだけれども、そんなこと一切する必要ない、このまま描くことのほうがいいんだ。これが個なんだ、みたいなことに実は気づかされたんですよ。町によってね。
さらに言えば、これは求めるものじゃなくて、逆に向こうから来て気づかされるという、そういうものなんだなと。求める必要もないのか、という感じを今度受けましたね。それで西脇に限らず、東京とか、いろいろなところをこれから少しずつ描いていきたい。
○福田 それは楽しみですね。
●横尾 今日もそう思いながら、車でずっと見ていると、けっこうあるんですよ東京も。ニューヨークのタイムズスクエアの先が暗闇になっているようなのを描くのも面白いと思うし。これからしばらくは、ちょっとそれをしていこうと思って。
ずっと描きつづけると、コンセプチュアル・アートなんて言われてしまうかもわからないけれど。そんなコンセプチュアルな意味性は、一切ないのですね。コンセプチュアルは想像を持ち過ぎですから。
以前、滝のポストカードを1 万3000枚、黒い額縁を付けてダーッと壁に並べたんです。こんなにたくさん持っていても、この1
枚1 枚が日の目を見ないで僕のスクラップブックの中に眠ってしまうのはかわいそうだから、供養してあげようと思って。
すると、やっぱりそれをコンセプチュアルとして美術関係者は見るんですよ。でもそれはやはり、美術の見方ですよね。一般の人は、そんな見方はしない。僕は単にコレクションを並べているだけで、作品としてそれを成立させようとしたわけでもないんだけど。
そのへんの曖昧さが好きなんですよ。ある人にとっては作品だけれど、僕はそうじゃないつもり。でも、それが作品になってしまう。まあそれはしょうがないな、というような曖昧さですね。
○福田 でも、横尾さんとしては、供養するという気持ちのほうがメインだし、その気持ちがあって初めて出来上がるわけですよね。
●横尾 そうなんです。芸術作品を作ろうという、そういう意図以前のものですよね。もっと僕の生理的な気持ちがそうだから、それでいいんじゃないかなと思ってね。
○福田 横尾さんが「個人」ではなく「個」としてつくられた。それがあるから成立している。それを芸術として見る人たちが、色々理屈をつけるということなんですね。
●横尾 そうです。あるとき僕が「なにかここに花を描きたいな」と言ったら、美術館の人が後ろで「曼珠沙華いいですよね」って言ったんです。それで曼珠沙華を描くっていうのは、僕がその人のアイデアをただ選択するだけですね。
でも、それはそれでいいと思うんです。楽なんですよ、作品を作っていくのに。今までは、やっぱりグッと相手に伝えようと、何かテーマを引き寄せて、そこへ無理やり色々考えたものを付け足して、戦いのようにして絵を描いていた。・・・・・・その自分が、なんだか懐かしいと言えば懐かしいですよね。
もう、そういうことをしたくないなっていう。やっぱり評価ばっかり考えていたから、そういうことをやっていたのかなという気もするんですね。もちろん評価ばっかりじゃないですけれども、やっぱり描きながら、どこかで評価を考えたり、展覧会場に並べたら展示効果も考えたり、バカみたいなことを考えていましたけれども。今のような発想でやっていくと、そんな考えは一切介在しませんからね。
先ほど言ったアンリ・ルソーですが、もしピカソが骨董品屋さんでアンリ・ルソーの絵をみつけてみんなに披露しなければ、あれは単にプリミティヴ・アーティストとして、20世紀美術史の文脈の、どこにも位置づけられなかったと思うんですよ。
それがひょんなことで受け入れられた。そういう、アンリ・ルソーとか、ゴッホとか、他にもまだ何人かいるかも知れないですけれども、あのへんは僕、21世紀でも価値を持つと思うけれど、他の人はどうなんでしょうね。今のコンセプチュアル・アートなんて、どうなんですかね。
○福田 なにも残らない可能性がある。
●横尾 残らないかもわかりませんよ。
○福田 でもたしかに、美術史っていうのは、みんなそうですね。19世紀に例えばメソニエが巨匠だったというのは、我々は全然ピンとこないですからね。その時代に一番もてはやされたものが、残らない。それは充分あり得ることですね。