【Part4 ピカソの20世紀を越えて】
○福田和也 今のお話をうかがっていて、本当に面白く思いました。そう考えていくと、20世紀の芸術というのは、……というより15、16世紀ぐらいから、西洋の影響がかなり大きかったわけです。横尾さんの言葉で言うと、個人のことをどう表象するかということを、ずっとやってきたわけです。
おっしゃったように、ピカソは個人の意識が本当に爆発したように見えているけれども。そうではなくて、ウォーホルとか横尾さんみたいなかたちのアプローチで、つまり個人の比率がひとつの限界に突き当たって、別の可能性が見えてきたというようなかたちにも、総括できるのでしょうか。
●横尾忠則 ピカソが黒人彫刻に興味を持ちましたが、その持ち方が面白かったと思うんです。というのは、表面性に興味を持ったわけですね。どうしてピカソは、黒人があの彫刻を作った源泉、インスピレーション、霊感に興味を持たなかったかということが、まず僕はひとつの疑問でもあるし、それがまた20世紀だ、というような気がするんですね。
もし、あそこで彼が黒人になりきって同じように彫刻をすれば、ピカソは自分自身を越えることができたかもしれない、わかりませんけれども。でも、少なくとも彼は越えられなかったですよね。
それは当然だと思います。その彫刻は個人で作ったものではなくて、むしろ「個」というなにかによって作られたものですよね。それをピカソは、もう一度個人に還元させようとした。そこに20世紀の、やるせない何かがあったような気がするし。それを20世紀の芸術界そのものが、みんなで「よし」として認めてしまったっていうことですよね。
彫刻をつくった黒人というのは、多少器用だったとしても無名の、画家でもなんでもない人です。そういった人たちに降りてきたインスピレーションの源流の母体に、どうして興味を持たなかったのかということなんですね。僕が興味があるのは、そのインスピレーションが降りてきた、メディア化した人間っていうのが、名前を持った個人ではないということです。あるひとつの肉体である、ということに興味を持つんですね。
そう考えるとピカソのやろうとしたことは、20世紀の代表的な芸術を作ったけれども、21世紀はそうではないんじゃないか。あの延長上に、もし我々が立とうとすると、かなり不幸だな……、それこそ地獄だなという気がするんですね。
○福田 ひるがえって、日本のことにいきますと、さっきおっしゃったように日本の場合は狩野派でも、大和絵でも、ある種のそういうあまり個人的ではない作業の中で進んできました。
近代になってから、岡倉天心のような人たちが始めたことでしょうけど、狩野派の方式ではなくて、「君たちは芸術家だよ」と言って、襖の絵を描いていた人たちを絵画というフレームの中に入れて、芸術家にしてしまったわけですね。それがずっと今まで来ているわけですけれども、その日本の美術のこれからのあり方についてはどう考えたら……。
●横尾 どうなんですかね。なんか「用の美」みたいなところがあるじゃないですか、日本の伝統美術には。西洋のは額縁に入って、自立した絵画、鑑賞美術ですけれど。日本はいろんな生活道具と、美術が密着していますよね。それでいいんじゃないか、っていうよりむしろ、もう一度そこに立ち返ってもいいんじゃないかという気がするんですよ。
そうしたら、今言っている「芸術」という言葉も消えていくんじゃないかと思うんです。どうなんでしょう、例えば民芸なんかは、無名の人によって作られた作品ですよね。ヨーロッパの天才芸術家によって作られたものではない。そしてヨーロッパの彼らはそこに到達するまでに、探求するんだけれども、民芸の人たちはそんなことをしないで、ポンと一発で西洋の天才が獲得した地点に到達している。
そこは日本のこれからの美術におけるポイントではないかなと思います。まあ僕は民芸は必ずしも好きじゃないですけれども、民芸が生まれたあの背景やあの精神性と言ったらいいのか。精神だけではなくて肉体もものすごく大きく関わっていると思うんですけれども、そこの部分ですね。
○福田 そういう風に、身体とか、生活の中から、ガッと何ものかを掴みだしてくるような力というのが、社会や美術、文化をめぐる状況を見ていくと、ある意味でこの日本こそが一番疲弊しているような気もするんですけれども。かつて非常に分厚いものを持っていたにも関わらずですね。そのへんはいかがでしょう。
●横尾 日本がですか? 西洋的な概念を取り入れすぎたということはあるんじゃないでしょうか。もう一回、西洋というものを受け入れた時点に返って、本当にこれは正しかったのかどうかということを考えてもいいんじゃないかという気はします。かなり盲目的に、西洋の近代主義を受け入れてしまいましたからね。そのために捨てたものが、とてもたくさんあるし。
デザインという問題と重なってくるかもわからないけれども、もう一回、用の美の中に戻して、そこからもう一回考えてみたらあるいは、近代が行った方向ではない方向といううのがあるんじゃないかなと思うんですけれども。むしろそのへんは、福田さんのほうが色々面白いお考えを持っていらっしゃるのでしょうが。
○福田 ところで、いわゆるサブカルチャーとか、消費的なものの中に今後美術なり造形芸術の美学、あるいは感性の領域を拡大する、あるいは刷新する可能性があるという話を、椹木野衣さんとか、あと村上隆さんなどがしています。コギャルが携帯電話にいっぱいシールを貼ったりしている、ああいうものの中にアートの可能性があるんじゃないかという見方は、どう感じられます?
●横尾 僕のアート観というのは、もっと範囲が狭いんですよ。狭くて、18世紀以前にむしろ戻ってしまうんです。目の前にある1
枚の絵の持っているアウラというものに、僕は感動したりするわけです。
だからそうじゃないものに関して、言わば現代のものは、確かに知的、観念的で面白いけれども、それは知的に認識した時点で終わってしまって。つまり僕たちの中の魂というものと、そういった現代のものが、お互いに交流しあっているかというと、そういうこととはまったく関係のないもののような気がするんです。
言い換えれば、そういう頭で認識したものを芸術と言ったところから、ものすごく領域が広がってしまったんですね。だから僕は、できるだけ作品から放つアウラみたいなものを、芸術に戻したいという感じなんですよ。そのためには余計な想像は必要ないように思います。
○福田 よくわかりました。要するに、一方の議論として芸術に対する反近代的なアプローチを取る人たちは、これが芸術だという枠組みを単純に外してしまおうとしているわけですが、それだとパーッと拡散してしまうことになる。
でも横尾さんの場合、そうではなく――芸術という西洋近代の枠組みはアウラ、魂との接触についてある種の抽象化をずっとしてきたわけですが――そのような一種のシステム化にたいして、生活とか身体などに直接関わってくるような、そういう魂あるいはアウラというのを回復させようとしている。それが本質ではないかという風に考えていらっしゃるんですね。
●横尾 そうなんですね。