【Part3 ウォーホルへの親近感】
○福田和也 話を戻させていただくと、ビートルズのジョン・レノンとは、けっこうご親交があったんですか?
●横尾忠則 いや、そんなことないです。ニューヨークで、ジャスパー・ジョーンズの家でたまたま会って、その日以来家に遊びに行ったりしました。でも間もなく彼は、オノ・ヨーコさんとちょっと別居するかたちになっちゃったんですね。それからあとは会っていないんです。
○福田 話はずれますが、興味があるのでうかがいたいのですけど。パフォーマンス・アーティストとしてのオノ・ヨーコさんは、横尾さんから見ていかがでしたか?
●横尾 僕は全貌は知らないから不正確ですが、ヨーコさんの行動ひとつひとつを見ていると、それ自体がパフォーマンス的に見えますよね。ベッドインされたころとか、その前のジョンとの出会いとか、そういった彼女の歴史が、なにかひとつの大きな作品として存在しているという気がするんです。もちろんヨーコさんも、そのことを意識していらっしゃるだろうし。
それでいま連想したのは、今までの芸術の制度もどんどん崩れていくだろうから、ものすごい、エッこんなところからって思われるようなところから、芸術が発生してくるかもわかりませんね。これからね。
ピカソみたいな、あんな自我意識だけでガーンと描いた作品が、果して21世紀になっても持ちこたえるのかどうか。そんなものより、もっと素朴なアンリ・ルソーみたいなのが、俄然21世紀的な美意識、芸術として評価されるかもしれない。あるいは芸術という言葉もなくなるかも知れないし。こういう言葉がある以上、なんだか面倒くさくてね(笑)。あんまり芸術、芸術と言わないで、早くそういう中から抜け出したいという気がしますね。
○福田 それは本当に面白い話ですね、ピカソが持ちこたえられるかという話は。ですけど、また一方で横尾さんは、それこそエル・グレコとか、ピカビアの模写をなさったりもされていますよね。でもあれは、芸術という枠組みとはまた別の、すなわち自我の表出ではないということなんでしょうか。
●横尾 そうですね。日本の伝統芸術っていうのは全部伝承ですよね。つまり見本があって見本にのっとって、狩野派だったら狩野派の絵のお手本があるわけでしょう。そのお手本に従って、描いたわけですね。だから僕もいろんなコラージュをしますけれども、それもひとつのお手本だと思っているわけなんですね。
ピカビアを引用したり、模倣したりすることも、僕はそれをひとつのお手本だと思ってやっているけど、模写をすることで自我が少しでも消えればという欲求もありますね。
○福田 『新古今和歌集』の本歌取りの世界とか、あるいは組み合わせの世界ですね。そちらのほうが、個人の表現として作品をつくるよりも、おっしゃった宇宙の摂理みたいなものに近いとお考えでしょうか。
●横尾 そうですね。僕はそこは、「個人」が「個」に移行した瞬間だと思うんですよ。個人というものの重さは、ちょっとこれはきついんですね。かといって自分を消すわけにもいかないので、その代わりに個になるっていうことは、これはもしかしたら可能ではないかと思うんです。
たとえてみると、僕がなにかのことでワーワー怒っているときがありますが、これは個人で怒っている場合が多いんです。しかしそこでもう一度個になった場合は、その怒りは納まるんですね。個になってみると、別にそんなもの大したことないじゃないかっていうふうになる。似たようなことを、絵を描いていてもときどき感じるんです。
○福田 組み合わせというと例えばアンディー・ウォーホルが、ポップアートといってミック・ジャガーなどの写真を使って作品を作りましたが、あれもそういう感覚だと考えてもいいんでしょうか。
●横尾 彼はそうなんじゃないですか。彼は「みんなが自分になればいい」という意味のことを言っていますよね。みんなが機械になればいいっていう。あれは完全に、個ということを言っているんじゃないかなと思うんです。
だから人が撮った写真を平気で使うし、そこにアンディ・ウォーホルという個人的な要素をなるべく入れないで、機械で刷っていく。じつは僕は今になってわかるんですけど、あのころはポップアートという別の概念で論じられてしまったために、かえってそこが見えなかった。けれども、あれは完全に個人を消す作業だったんじゃないかなと思うんですね。
○福田 そうすると、同時代のいろいろなアーティストの中で、そういう意味で近さを感じるのはウォーホルになるんですか?
●横尾 ウォーホルですね。あのときは僕も含めて方法論だけに目が向いていて、実はよくわからなかったんだけれども。今になって思うと、大したことをやった人だなと思って。
○福田 横尾さんは一時期から、ある種の「神秘的な領域」についてさまざまなかたちで語られています。それもやはり、個人の領域の外にあって、個に関わることだという風に考えてよろしいのでしょうか?
●横尾 そうですね。それとさっき言った、どうやったら宇宙原理の軌道と接触できるかということですね。僕はそれを、できない世界だというようには考えたくないんです。できるということをまずを決めて、それにできるだけ近づいてみたい。「それなら、宇宙原理とはなんだ」と問われるとよくわからないです。ただそれは、秩序立てられた、ひとつの意識だと思うんですね。宇宙意識という。
宇宙というのはなにもない空間で、つまりモノがない空間だけれども、そこには秩序立ったひとつの原理があるのではないか。それは実は「意識」ではないか、と。その意識には、「私」も「あなた」も「君」も、まったくないというか。そしてその意識に自分が接触できたならば、その意識と同化していく、みたいな感じのものですね。
比喩を使えば、イワシの大群みたいなもの。イワシの大群は誰かが先頭切って、「右、左」と言っているんじゃなくて、ひとつの大きな意識体になって、ワーッワーッと動いていますよね。科学的に正確かはわかりませんが、イメージ的にはああいう風になればと思います。個でありながら全体に包括された、というようなイメージですね。
あそこには「私」としてのAさんBさんはいないと思うんです。ああいう風に、もしなれればな、と。もちろんこれは日常生活をしながらです。もしそうなれれば、まず妙な悩みもなくなるだろうし、これは一番いいのではないだろうか、と。まぁ、難しい部分ですけどね。