【Part1 道徳教育が欠落した歴史的理由】
教育改革は多義的な概念である。したがって、いわゆる「ゆとり教育」路線を邁進し、来年4月実施の新学習指導要領で学習内容の3割カットという蛮行を行おうとしている文部科学省も、自らの路線を教育改革路線と位置づけているし、3割カットを教育改革の総仕上げと自認している。
逆に、「ゆとり教育」を含めて今日の文部行政を批判的に考察し、新学習指導要領の見直しを求める論者も、今日の教育荒廃を憂いて、戦後教育の大幅な見直しをすべく教育基本法の改正を主張する論者も、自らを教育改革論者と位置づける。
このように教育改革は多義的であり、何をもって教育改革とするかは論者によって大きく異なる。
小渕内閣が発足させ、森内閣が引き継いだ教育改革国民会議は昨年暮れに提出した最終報告書において「教育の現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している」との基本認識を示し、教育を変えるための17の提案を打ち出した。
そこでは、これまで言うことをためらわれてきた伝統や文化の重要性に言及し、日本人としてのアイデンティティーを持った人間を育成するとした上で、教育の原点は家庭にあるとして親に自覚を求めている。そして、それらの総仕上げとして教育基本法の見直しに取り組むことが必要と明言している。しかし、ここには、なぜか、「ゆとり教育」を見直すとの文言はない。全く不可解である。
私は「ゆとり教育」を含む今日の文部行政、さらには戦後教育体制のすべてにわたって、大幅な見直しを求めるべく論陣を張ってきた者の一人である。したがって私が言う教育改革とは戦後教育の体制も理念もすべてひっくるめて見直すことであることをまず断っておきたい。
私たちはここで、いじめ、校内暴力、学級崩壊、不登校、いわゆる援助交際などの性道徳の乱れ、青少年による凶悪犯罪の続発、学力低下など、今日の教育荒廃の問題に目を向けなければならない。
これらの教育荒廃の原因は様々に指摘されている。しかし、私はここでそれらの大きな原因の一つに、というよりも根底にある問題として、戦後教育が本来的に有している問題があることを指摘しておきたい。
具体的に言えば、戦後教育の理念を示している現行の教育基本法には、道徳教育の理念が完全に欠落しているという問題である。教育基本法に道徳理念が欠落している理由は、ほかでも書いたことだが(拙著『誰が教育を滅ぼしたか』PHP研究所、2001年)、次のような事情による。
すなわち、教育基本法の起草者たちは教育勅語を肯定し、道徳教育の部分については教育勅語に任せ、新憲法(日本国憲法)との関係で教育勅語には欠けている理念を教育基本法に明記した。
つまり起草者たちは教育勅語と教育基本法との両輪で戦後の教育を進めることを想定していた。しかし、教育基本法の公布・施行後1年3カ月経った後、占領軍の圧力によって国会の衆参両院で、それぞれ教育勅語の排除決議・失効確認決議を行い、教育勅語を否定した。
以上のような経緯から、教育基本法は道徳教育の理念を欠くものになったのである。
教育基本法は「個人の尊厳」を言い、教育の目的として「人格の完成」を掲げている(第1条)。しかし本来、道徳教育なきところに「人格の完成」も「個人の尊厳」もないはずである。道徳教育を通じて陶冶することで初めて人格は完成し、尊厳性が備わるのに、戦後の教育は道徳教育の理念を欠いたまま、また、それを行わないまま、ただただ「個人の尊厳」や「人格の完成」という空念仏を唱えてきた。
そして陶冶されていない幼稚で低俗な「個性」にも「尊厳性」が備わっているかのように子供たちに接し、子供たちを勘違いさせてきた。その傾向は時代が進むにつれて強まっていった。その結果、今日のような教育荒廃現象が生じても無理のないことであろう。