【第3回 美しい人間を書きたかった 】
○福田和也 多分、『彗星の住人』は――もちろん一作一作大事だとしても――『彼岸先生』以降の作品の中で非常に節目になるものだと思うのですね。『彼岸先生』とこの作品は、フェイクとかいかがわしさっていう意味では一貫しているんだけど、いかがわしさの意味が全く変わっていますでしょう。
『彼岸先生』の場合は――『優しいサヨクのための嬉遊曲』からずっとそうだったのかもしれないけれども――一大文字の“正義”とか“理念”みたいなものが成り立たないところで良心的であったり理念的であったりするためには、どうしてもいかがわしくあらねばならない、疑惑的にあらなければならない、という方向だったと思うんだけれども。そういう意味では『彗星の住人』とネガポジの関係になったと思います。
こちらのほうは、歴史全体を奪回するというような、もっと積極的ないかがわしさに変わっている。そこが非常に大事だし、面白いと思ったんです。
●島田雅彦 この登場人物を描くときに、最初にすごく素朴なことを考えましてね。僕は、正しいことをするとか言う人のことを、あんまり信用できないと思っていますけれども、ただ、良い人とか美しい人とか憧れる人とか、そういう人はイメージしやすいですよね。
『彗星の住人』において最初に考えてみたのは、ちょうどドストエフスキーが『白痴』を書く時に「美しい人間を書きたい」と言ったんですが、その心境に近いものがあるかもしれないです。
ただ、「美しい」と一口にいっても、こんなに多義的な言葉はない。個人の趣味とか共同体の感覚に根ざすもので、決して普遍的ではないですからね。それを歴史に配置してみたときに、ある人が行った事業が正しいか正しくないかっていうのはその時点では決められないと思いますよ。
それから、歴史が記述される段になっても、それが正しいことかどうかっていうのはまだわからない。正しかったか誤っていたかっていうことの評価は、その後もしばらくの間は反転を繰り返していきます。あるときは正しかったり、ある時期は誤っていたり、と。
しかし、当人が最も美しいと思ってやったことであるとか、私利私欲ではなく、だれかを救うような配慮に基づいて行った行動であるならば、その人にとって良いことであるとか、人々にとって良いことであるとか、あるいは美しい行為だったとか、優雅な行為だったとかいう評価は、その都度その都度は与えられてもいいんじゃないか、と。それは逆に正しかったか間違っていたかというような評価ほどは揺るがないんじゃないかと、そうも思えるんですよね。
例えば恋っていう事態を一つとってみても、阿部定は正しいことをしたか、誤ったことをしたかっていえば、まあ、誤ったことをしたでしょう。だけど、あの行為を美しいと評価する向きは多々あるわけでしょう。恋を全うしたのだっていう観点からすれば、あれも良いことなのかもしれないっていう面もあるでしょうね。
だから、時にそういう道徳だとか、倫理だとかっていうことを踏み外しても、なおかつある絶対の確信を持って遂行される事態――その最たるものが恋ですが――においては美しい人、美しい恋っていうのはある得ると、とりあえず仮定して考えてみましたけれどね。
○福田 カヲルはやっぱり美しい人にしようと。
●島田 うん。美しい人であろうと、あらせようと。JBもわりに複雑な日米交渉史上の時期にサンドイッチされた人物ですので、そこで一番良いことをしようとした者として書こうと思ったし。その息子、蝶々夫人の三代目も焼け跡で、ただ音楽と恋とに生きただけですが、しかし、それゆえに美しい音楽を書こうと思う作曲家の心性と同じように、美しい恋をしようと心掛けて暮らした者として書こうと思ったし。
○福田 島田さんの作家のキャリアとして、この作品が書かれるべき時期だったということもあるかもしれないけども、この時代のタイミングでこういう作品が書かれたっていうこと自体を考えてみると、美しい恋愛の連鎖のような形で20世紀を振り返るという段階が来つつあるのかなっていう気もするんですよね。
というのは、文化の趨勢というものに対して、もちろんあなたと僕で見方は違うだろうと思うけれども、多分、非常に大雑把にいうと20世紀とは第一次世界大戦後ぐらいまでは政治の世紀で、二大戦間は文学というか、思想の世紀ですよね。二大戦間からちょっと後に文学の時代が少しあったけれども、またそれもなくなってしまった。
ところが、どうやらまた潮目が変わってきているのかな、文学のチャンスが再び巡りつつあるのかなっていう気もするんですけれども、その感じはどうですか?