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第1章
18世紀とのアナロジー

第2章
「剛構造」がまねく業火

第3章
中国、ロシアという発火点

第4章
「人間の本性」に沿った世紀

第5章
日本のアイデンティティを見直す時

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中西輝政・福田和也(2/全5回) 2001.06.04

【第2章 「剛構造」がまねく業火】
■断層的な試練は避けられない
福田和也 私の場合、文化方面でどうしても考えてしまうのですが、文学でも美術でも音楽でも20世紀はおっしゃるとおり破壊の世紀でした。特に小説が一番わかりやすいのですが、それこそ16世紀ぐらいからずっと培ってきたものを、つまりはヨーロッパの文明の中で爛熟し、完成したものをどんどん壊したのが20世紀でした。しかし、そういうことが文化的にもまったく意味がないとわかったのが、ここ10年ぐらいの話ですね。そういう「破壊の時代」はもう終わったということが、文学の中ではだんだんはっきりしてきています。

 音楽とか美術などもそうだと思うのです。20世紀のアバンギャルディズムとはなんだったのか――結局なんでもなかったという話になりつつある。すると21世紀の流れは、抽象的な言葉で言えば「反動」であり、わかりやすく言えば中西先生のおっしゃった「癒しの世紀」ということになるのでしょう。文化面で言えば、本当に文学をやるとは何なのかとか、音楽のやるべきことは何なのかという、本質的な再編成をきちんとやっていくということが基本的な潮流になると思うのです。

 政治なり外交で言えば、前回「20世紀論」の議論に戻ると思うのですが、本当の国家とか民族とか政治は何をやるべきかという問題。あるいは国の利益とは何かという、本当にコンサーバティブな、地政学的な政治に戻っていくだろうということです。

 さっきおっしゃった「エネルギーの蓄積」という問題になるのでしょうが、そうなると多分、非常に古典的な国家間の競争が再び起こり、あるいはその競争のなかで――どのようなかたちになるかわからないですけれど――小さな国などは帝国の一部と化され、領域化されていくのではないか。

 要するに、今のようにどんな小さな国でも国際政治に参加できるというのではなく、大国の勢力下におさまっていく形で競争が行われる。そのような大きな流れになる。しかし、いちおう20世紀に戦争は「終わって」しまっているということになると、かつてのような戦争や侵略という手段をとることができない。そのときにこの競争なり、国家の活衰というのはどのようなかたちになるのか。これは一番興味深いところだと思うのですが。

中西輝政 おっしゃるとおり、世界の国際秩序、あるいは国家間秩序というものは、全体を大きく言えばそういう方向へ行かざるをえないと思うのです。しかし、そこへ行くためには、断層的な一つの大転換の試練というか、「業火」に焼かれないと仕方がないのではないでしょうか。

 それがない限り、いまの国家平等の観念からくる国際秩序から、そう簡単にはすぐそこへ飛び移っていけないところがありますね。こうした問題は、経済とは違い、徐々に曲線的に進む、ということはあり得ないからです。

 それでは何が起こるのかということですが、いま考えられるのは、たとえばいろいろな経済圏という議論をしています。これは機能主義経済、つまり食うための必要上、国家は必然的にまわりの国と協力し、いずれ一つの単位になっていかざるをえないという前提です。しかしこれはやはり、のっぺらぼうな功利主義の、あるいは「かくあるべし」という思考というところがあって、それで歴史が動いたためしはないのです。

■人間存在の真実に戻っていく
中西 結局あるところで一度ものすごい軋轢を経験した後に、大きな揺り戻しがあるのではないでしょうか。いまのEUにしろ、他のいろいろな国家間の協調関係にしろ、安易には達成できないと思います。おっしゃったように小さな国などは整理されていくのではないでしょうか。しかし、そこへ決定的に後戻りしないかたちで入っていくには、イヤだというなら、こういう制裁をするぞという相当強い力が作用しなければなりません。経済や文化だけではそんな統合力は出てきません。

 一言でいえば、21世紀はやはり人間存在の、最も掛け値なしの真実のところに戻っていくということです。おっしゃられた芸術は、時代の先を読むわかりやすい例ですが、アバンギャルド、あるいは抽象画といったさまざまな20世紀の試み、これらは全部いわば、愚かなる実験だったわけです。

 しかし実験は意味がなかった。いくら実験したって、人間の本質的なものは変わらないのです。あたりまえのことですが(笑)。そこに知の、あるいは感覚の、フロンティアなどなかったということが、芸術各分野でだいたい証明されつつあると言えるでしょうね。こうした運動は、20世紀の進歩主義や、近代自然科学の「確定した世界」観がもたらした、「よりよい未来」志向主義の一環だったのです。

 国家間の政治、あるいは経済をめぐるいろいろな論争や軋轢も、その実験の最後のところへさしかかってきているのですね。しかしこちらのほうは、逆に言うと、非常に「剛構造」になっていますからね。だから芸術のようにしなやかな変化はできず、大きな業火となってしまう。

福田 どのような可能性をお考えになりますか?

中西 たとえば、20世紀の規模をはるかにしのぐような世界大恐慌が起こってしまう。それによって、小さい単位の国が自立していく可能性をだれも信じなくなってしまう。発展というモデルが、人々の頭の中から消え去って、小さな国やアフリカの発展途上国などは、500年たっても1000年たっても小さいままで発展しないと人々が考えるようになれば、これはもう存在を問われかねないですからね。もう一度大国の植民地になったり、あるいは世界全体が民族自決主義とは全く別の国家間秩序なり、世界秩序なりを構想していく必要があるという話になります。

 あるいは国連がいっぺん破綻するということもありえますね。1国1票という制度で国連を運営していたのでは、とても世界秩序に関われないことは自明ですからね。するとある時点で、国連は一旦破綻し、今度はもっとガッチリとした合意に基づく契約を結んだ国とか地域だけがそこへ入りましょうとなるかもしれません。

 どちらにせよ、一つの断層的な変化、大破綻の業火を経ないことには、政治や国際秩序の場合おっしゃられるような所まではなかなか行けないと思います。そこには、文化とは異なった「剛構造」がありますからね。

(第2章 終)

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