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第1章
「破壊」とその後の「空虚」

第2章
植民地解放の真の意味

第3章
アメリカ文明とはなんだったか

第4章
戦争を失った世紀

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中西輝政・福田和也(1/全4回) 2001.05.22

【第3章 アメリカ文明とは何だったか】
■アジアが抱えこんだ大きな懸念
福田和也 近代以前のちょっと中世的な光景が見渡せるというのは、明らかに歴史のスパンとしてあると思うのですが、一方でやはりアメリカの問題がございますね。

中西輝政 そう、アメリカの問題があります。

福田 この間ヨーロッパへ行ってきました。たとえばイタリアを回って感じましたのは、ヨーロッパのアメリカニズムに対する抵抗の強さです。その点を考えますと、たとえば世界中で一番マクドナルドとかケンタッキーが目につくのは、日本を除けば中国であったり、韓国であったり、フィリピンであったり、インドはちょっと地方によってちがいますけれども。

 しかしどちらにしろ、アジアのほうが圧倒的にアメリカの――先ほど俗悪とおっしゃったようなものが圧倒的な勢いで入ってきています。このアメリカのもたらす、物質主義、俗物主義、アメリカの持っている文明的なインパクトという点をどうご覧になりますか。

中西 これはむずかしい、少しアンビバレントな問題ですね。アジアのほうがアメリカニズムへの受容性が高いというのは、非常に皮肉な、意外な現象だと言わざるをえないと思う。

 けれども、世界中を見るとおもしろいことに、中東地域、ロシア、つまり一神教的な正義の体系がはっきりとあったり、ヨーロッパと同じキリスト教を受容していても文明史的に長年対抗してきたロシア正教みたいなところは、逆に抵抗が強いですね。ですから、西欧文明と体系が似たところは抵抗が強くて、アメリカニズムを跳ね返す力のほうが先に出てくる。

 ところが、アジア地域の場合には、もうデタラメに受け入れてしまっていると言いますか、たしかに一見、無節操とすら見える。しかしそれは、ほとんど内容を換骨奪胎して受け入れているから、受容がスムーズだという面があるかもしれませんね。

 しかし同時にまた、一方でそう楽観もできないのは、私もこの20年、中国の改革・開放の過程をずっと見てきましたが、強く思うのは、ヨーロッパやロシア、中東社会には起こらなかったものすごい精神・文化面の破壊が、アメリカニズムの受容とともに中国社会に起こっています。

 目に見えるところで言えば、北京の街並みは、清朝までのいわゆる中華文明、あるいは毛沢東時代の風景、そういうものが本当に一掃されてしまいました。シカゴの街をちょっと近代化したような、そういう風貌に変わりつつある。あらゆる古いものは全部値打ちがないものとして、いま中国人は十把一からげに破壊に奔走していますね。

 その跡に、おっしゃられたマクドナルドが建ってみたり、あるいはフェデラル・エクスプレスの大きな倉庫群ができてみたり。
 これは何なんだろうと思います。これは見方によれば、文革のときの破壊よりひどい。

 よくよく考えれば、日本の戦後・高度成長期もこういうことをやってきたのかなと思わされるのですが。ですから、現在の日本が先取りして証明しているように、アメリカニズムと言いますか、アメリカ的な生産様式、社会モデルを受け入れたことによるコストというのは、アジアが一番ひどくなるのではないか。これは21世紀のアジアに関する、非常に大きな懸念材料ではないだろうかとも思わされますね。

■1913年の変質
福田 アメリカ的な文明ということについて、逆に言うと20世紀において、アメリカは変質したと思うのです。そのポイントがどこなのかについては、米西戦争がポイントかもしれないし、ウィルソニズムと並行するようにあったフォードの大量生産革命のころかもしれません。
※1898年、スペイン領キューバの独立戦争にアメリカが介入し、スペインに勝利した戦争。これにより、キューバ、プエルト・リコ、グアム、ハワイ、フィリピンなど、アメリカは環太平洋に一大殖民帝国を築き、強国として帝国主義に乗り出した。

 いくつか挙げうると思いますが、20世紀のアメリカについて、米西戦争以前の大陸のなかで非常に求心力をもっていたアメリカが、変わってしまったそのポイントと、マクドナルドなどがバーッとばらまかれることになったこととは、おそらくつながっていると思うのです。その点、いかがでしょうか。

中西 非常にいま大切なことをおっしゃられたと思うのです。その福田さんの直感を、歴史的に説明すると、1913年という年が重要なポイントになりますね。この年を、私は「アメリカがグローバリズムの流れに飲み込まれた年」として、決定的に重要なアメリカ史の転換点だったと思います。

 この年は、建国以来、アメリカ国民の中に強い反対のあった連邦準備制度が発足し、金融面でアメリカが、グローバル・システムと直結した年ですが、もちろんウィルソン政権のスタートの年でもあった。そして第一次世界大戦参戦へとつながり、建国以来の孤立主義が放棄されていきます。つまり「アメリカニズムがグローバリズムに絡めとられた年」と言っていいでしょう。

 われわれは大ぐくりに「アメリカニズム」と言っていますが、日本人が現在使っている言葉としての「アメリカニズム」の大半の部分は、たとえばケンタッキーの山間部に住んでいる純粋なアメリカ人、あるいはジョージアとかテキサスの地方都市にいるアメリカ人の中年夫婦などにとっては「そんなものはアメリカとは何の関係もない。われわれだって嫌いだよ」というようなもの。アメリカニズムとは、比喩的に言えば、そういうアメリカなのでしょうね。
 
 そういう「グローバリズム」が、本来の「アメリカ」を侵食し、やがて世界を絡めとっていく源になるものが20世紀の20年代ぐらいまでに出来上がってしまっていたということでしょう。だから、その後のアメリカという国は、一転して外へ押し出していこうとしたわけです。

 そして本来あった、19世紀までの、文化として一つのバランスがとれて、それ自体で意味的完結性をもったアメリカ、独立以来の非常に土の香りのする、そして非常にユニークな特質を持つ、どこにも輸出不可能なアメリカ、つまり本来の「アメリカニズム」というものは、いま世界に押し出している「アメリカ」とは本質的には異質なものだと思いますね。

 ただ、アメリカの土着性のある、固有アメリカ文明というものは、アメリカ本国のなかでもやはり刻々と死に絶えつつあると思います。アメリカ自体もここ数十年グローバリズムの大きな衝撃に呻いているという感じがしますね。

■回帰したがっているアメリカ
福田 80年代にアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』という本が評判になりましたが、古典主義的な精神に立って建国されたはずのアメリカが、もう完全に解体されているという警鐘が鳴らされました。そういう声がいまこそ本当は出るべきなんでしょうが、聞こえてこないような気がします。どうなのでしょうか?

中西 2000年の大統領選挙で、第三の候補たちが非常におもしろかったですね。ブッシュとゴアの両氏には「どちらでも同じ」という印象がありましたが、それと対照的に第三の候補はたとえば懐かしいところでは、最初はロス・ペロー氏が出てくるかもしれないと言われた。あの人物はわれわれ日本人からすれば、どこから見ても典型的なアメリカの小父さんです。言っていることも非常に固有アメリカ的な文脈で、それ以外の文脈は考慮しないというタイプです。

 あるいはラルフ・ネーダーという、これまた懐かしい名前が出てきましたが、これは左翼のほうからですね。環境や人権を主張したその中身は、いかにもアメリカ的ですけれども、たとえばその話し方は非常に宣教師的ですね。いかにもアンクル・トムのアメリカらしい、馬鹿馬鹿しいほどユートピア的なアメリカを語りました。

 それから、右のほうでは、パット・ブキャナン氏。話題となったフロリダでは間違ってパンチされるぐらいの票しか入りませんでしたが、南部や北西部あたりではかなり票を集めました。それから、民主党のほうではゴア氏と指名を争ったマケイン氏がいましたね。この人もゴアに比べれば、明らかに固有のアメリカ、土着の中西部のアメリカを体現していました。

福田 そういう感じがしますね。

中西 そういう人たちが多彩に出てきたことは、長期的にはアメリカ人の中にもやはり古いアイデンティティの再生・探究の流れが出ていることの証しで、大変興味深い。

 たしかに結果を見ると凡庸な二人に収斂していったわけですけれども。この凡庸な二人はやっぱり20世紀の、世界に押し出していって、どちらかといえば周りが迷惑してきたようなグローバリズム・バージョンのカッコつき「アメリカ」を体現していました。

 その他の候補 4人、いま名前が出たペロー、ネーダー、ブキャナン、マケインといった各氏は、むしろ古典的なアメリカ、すなわちピリグリム・ファーザーズでやってきて、独立宣言をし、国をつくり、そして19世紀終わりまで非常にセルフ・コンテインされた島国としてのアメリカ大陸のなかで、非常に偏頗だが大変ユニークな文明――どこにも輸出できないアメリカという、その面をもう一度改めて代表するような顔ぶれじゃなかったでしょうか。

 その意味では、アメリカ人自身もじつは、本来のアメリカへの回帰を求め始めたといえます。

福田 回帰したがっている、と。

中西 彼らの歴史本能、文明本能というものが、もう一回アメリカ大陸に戻ろうとしているということが言えるのではないでしょうか。百年の空間と時間をはさんで、世界に広がりすぎた、そのために希薄になった、あいまいな「アメリカ」像をもう一度乗り越えて、21世紀のわれわれの求めるものはその原点しかないというように。
 そういうアメリカ文明の本能的回帰が、大統領選挙にかいま見えたと思うのですね。

福田 逆に言うと、今度の大統領選挙は20世紀の最後にふさわしく、20世紀的なものが悉く出て、そこの限界が出てきてしまった……。

中西 ということですね。ですから、2人の何百票という程度の票差が大問題になりましたが、しかし大統領選挙全体を見れば、20世紀のアメリカがもうこれ以上進みようがなくなったところまで来て、とうとう最終的に数百票をめぐって「開票集計」という民主主義の一番根幹の部分で、20世紀全体を象徴したカリカチュアが演出されてしまった――その意味することは、ウィルソンのアメリカ、あるいはフォード的大量生産による物質主義と没個性のアメリカ、そういうものにほとんど未来がないということです。

 アメリカ人自身はもう気がついてきて、「これはやめよう」という流れになってきたところで、皮肉にもアメリカ以外の世界は、グローバリゼーションとアメリカニズムに向かっている。アメリカにしてみれば、そういう20世紀の悪夢にもう一回われわれは付き合わされるのかという、心理的なサイクルとしてちょっとギャップを感じる気持ちになってきている。

 21世紀を考えるときに、やはりわれわれ日本人は、アメリカという存在が示しはじめたこういう変化の可能性も、頭の隅に置いておく必要があると思います。

福田 アメリカは言うまでもなく覇権国であり、世界最大のスーパーパワーですから、その変質は間違いなく全世界に影響を与えますからね。

(第3章 終)

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