【Part1 官邸に権力を集中させられるか (4月25日 記)】
党所属の国会議員と都道府県代表による総裁選本選挙で圧倒的な勝利を収め、小泉純一郎氏が総理総裁の座に就いた。
自由民主党の老い首は「皮一枚」で繋がったといってよい。
今後の焦点はこの一枚の「皮」を生かしきるか否かである。
首相が変わっただけで政策や政治スタイルが一新される、そして人心が自民に靡くと安堵するのは甘すぎる。
小泉氏は主要党役員および閣僚人事に非日本的なスタイルの「恐怖政治」的姿勢で臨むべきである。
総裁という立場に就任したから「解党的出直し」ができなくなるのではない。総裁だからこそ変革継続が可能なのだと知れ。
まず旧執行部、とくに橋本派の「老人たち」を党役員、閣僚から徹底的にパージすべきである。「報復人事」などと非難されても一瞬たりとも怯んではならない。これは自民党内のクーデターなのだ。
自分に何故、カタストロフィックといえるほどの支持が集まったのか。自民党にどういう変化が起こっているのか。自分がいかなる輿望を担わされつつあるのか。小泉氏は虚心に内省すべきだ。
森派、江藤・亀井派、山崎派、加藤派を中心に、堀内派、河野グループを取り込み、さらに橋本派の若手造反組を積極的に登用して、アンシャンレジームを切り崩していくことが肝要だ。派閥順送り人事など一刹那も顧慮してはいけない。馬謖を斬るに際し泣いている余裕はないのだ。今夏の参議院選挙まで残された時間は僅か。政策の効果が判然とするのはずっと先の話だ。
これはリアル・ポリティックスなのだ。たとえそれが悪しきものであるにせよ(私はそう思うが)政治の高度メディア依存は牢固たる現実であり、近代国家の必然なのだ。メディアという戦場でまず勝利できなければもう先はない。
旧執行部の「老人たち」が、長年お国に尽くしてきた我々がこれほど屈辱的な仕打ちに合わされるのか、もはや自民は終わった、自分たちを養い育んだ日本は終わったと悲憤慷慨し、政界引退を決意するほどに冷遇しなければならない。
国民はそれを望んでいる。旧体制の支配者たちが地に悔恨の血涙を零すのをみたがっている。自民をサヴァイヴァルさせるのは新時代の到来を、新世代の擡頭を国民に印象づけたときである。
新風が吹くのはまず澱んだ空気を一掃するためと知れ。
小泉氏は靖国神社公式参拝を公言したり、憲法改定を示唆してまずライト・ウィングの支持を固めようとしているが、仮にその立場が正しいとしてもいささか性急過ぎる。
官邸にすべての権力を集中させること。それこそが抜本的改革の第一歩である。
そうでなくて、どうして旧自民党の「下半身」たる利権構造を解体するような改革が断行できるのか。どうして集票装置たる特定郵便局や建設業者、大金庫である特殊公益法人、社団、財団法人にメスが入れられようか。
幹事長に山崎拓氏、総務会長に堀内光男氏、政調会長に麻生太郎氏という党三役人事に関してはほぼ及第点を付けてよい。
だが本当の難題は田中眞紀子氏、亀井静香氏の処遇だろう。田中氏は人気は高いものの政策遂行能力はまったくの未知数、いままでのあまりに軽率な放言の実績から政権内のトラブルメーカーとなる危険性も消えない。亀井氏は誰がみても小泉氏の改革路線には真っ向から対立する立場である。
株式市場の短期的な「声」に軽々しく呼応してはならない。市場派エコノミストのアドホックな助言も決して聞き入れてはならない。もし株価低迷を構造改革のせいにするかのごとき論難が出たなら、「政府はマーケットのためにあるのではない。市場は利潤を、政府は正義を追求する。財政はあくまで国民の福利増進のためにある」と突っぱねよ。市場を無視するのではない。無視する素振りをしてコントロールするのだ。
優れたブレインを付けるべきだ。小泉氏は党内の基盤が弱いだけでなく、政策の企画、立案を支援する知的な基盤が貧弱過ぎる。
メディア戦略と政策案出能力が新しい政治スタイルの両輪となる。
小泉政権が、いや小泉率いる「新自民」がどこまでいけるかはその成否に掛かっている。
人事の対世間的な目玉である女性民間の遠山敦子氏、川口順子氏は元官僚であり、純然たる民間人登用とはいい難い。竹中平蔵氏は森喜朗首相の事実上の経済政策顧問であり、それを知る者にとってはあまり新味のない人選である。
塩川正十郎財務大臣という森派の重鎮、長老という以外は理由の見当たらない人事もある。同じ「塩」でも塩崎恭久財相が実現していれば画期的な内閣だったろう。加藤紘一財相でもよかった。党内規約など無視すればもっと株を上げたのに。
経済構造改革は、留任の柳沢伯夫氏、石原伸晃氏、竹中氏の三大臣がエンジンとなってゆくだろうが、具体策は緊急経済対策を速やかに実行するという小泉氏の確言以外まだ明らかにされておらず、党内情勢によっては改革が急速に鈍化する虞も払拭できない。