【第5回 視野の広さを取り戻せ】
●前田日明 しかも、それは民主主義っていう音頭を取ったせいで。
○福田和也 民主主義と、そういう国を担う気概というのは、本当は両立しなければいけないんですけど。それがなくなってしまいました。
●前田 そうですね。俺なんかも民主主義っていうのを学校で覚えて、そういう社会で暮らしているんですけど。この民主主義というものも、もうちょっと変わっていかないと、これもどんどんおかしくなっていくんじゃないかと思うんですよね。
○福田 欧米なんかでは民主主義って言っても、基本的には指導者民主主義ですからね。とにかく一人リーダーを決めて、その人間に任せようというかたちで、3、4年やらせるわけですよね。もちろん大統領制の国もあるし、イギリスみたいに首相制の国もありますけれど、基本的に指導者民主主義。
日本の場合、そういう指導者が現れるのを全部引きずりおろしてしまいますから。そうしてしまうと、結局おっしゃったみたいな、馴れ合いの妥協だけになってしまって……。
●前田 自分も昔、UWFっていう団体をやっていましてね。若い人たちと、全部横一列に合議制でやろう、とやってみたんですよ。みんなで集まってミーティングをしたんですけど、でも意見がないんですよ、みんな。
しょうがないから、俺が「こういうのが問題だ」って自分の意見を提示して、それに対してどう思うかって聞くんです。でも、イエスもノーもなかったり、ただ「それでもいいんじゃないですか」と言われたりって程度ですよ。意見もなくて「それでいいんだったら、じゃあそうしよう」とピッて決まりますよね。
それが新しい試みだったりすると、成功もあれば失敗もありますよ。成功したときは、合議してよかったなとなるんです。でも、失敗するとどうなるかっていうと、「あれは俺の意見じゃなかった」「前田が勝手にやったんだ」と、そうなっちゃってね。
今の政治を見てもそうじゃないですか。議会でそれが出来上がって、通って、多数決を取って、決まったものに対しては、全員が協力しなきゃいけないはずですけど。失敗したら、ほらみろ、あれは俺の意見じゃなかった、あれは誰彼の責任だと。
そんな風に言っている人もおかしいと思うんですね。議会で真摯に話し合って、多数決を採って決まったものであれば、政党間の数の論理の問題があったにせよ、それはそれで政党自体の責任ですから。全員で協力して、なんとかうまくやれるようにやるっていうのが、当たり前の政治の姿じゃないですか。
そうじゃなくて、それを批評の種にするっていうのは、もちろん日本だけじゃないんですけど。でもあたら日本とか東洋の国っていうのは、いにしえの中国の尭とか舜っていう幻の賢君政治みたいに、臣下一同協力しあってやっていく流れというか、それを理想として頑張っていこうというモラルがあったと思うんです。
とうとう、日本も西洋もみんな同じになっちゃって、ただ政治に対する陣取り合戦、数の取り合い、メンツの取り合いっていうだけになっちゃって。
政策を論じて遂行した、失敗した、というときにじゃあなぜ失敗したんだろうっていう議論がなされるべきですよね。その前に、あれは誰々にこういう汚職があったからとか、なにが悪かったというだけで終わってしまっては駄目ですよ。
例えば一般的な例として、オウム真理教がありますよね。俺にしてみたら、すごくビックリしたことなんですよ。そうそうたる一流大学の研究室に行くような有望な人たちが……。 ヘェーッていう感じなんですよね。それが散々ああいうことがあって、麻原彰晃はたぶん、何年後か分からないけど、裁判で死刑になるだろう、と。
でも、じゃあ信者が激減するかというと、そうじゃないですよね。一度は減ったけど、また少しずつ増えているんですよね。それで信者のインタビューを見ていたら、信者が教祖の麻原に対して「しょうがないオヤジ」みたいに言っているんですよね。あれはなんなんだろうなって思ったりするんですよ。
日本のマスコミって、そういうものに対する理論の組み立て方がヒステリックで、イエスかノーかどっちかしか言わないんですよね。でも、物事がひとつ起こって、それが中心になっていろんな事件が起こったときには、それに巻き込まれた人にとって不可と可の両方の部分がある。可の部分があったから、彼らは惹きつけられたわけなんですね。
そして、不可の部分によって彼らは傷つけられたわけですよ。その両方をはっきり論じないと、さっき話した中国の史官じゃないけど、後世の人が誤るんですよ。
それを新聞の誰がやったか、識者の誰が言ったかっていうことを、誰も言わないし誰もやらないんですね。
そういった意味での真摯さっていうか、本来ジャーナリストとして持つべき勇気っていうか、常識というものがないですよね。だから俺、今後もまた「麻原彰晃的」なことが各分野で起こると思いますよ。そのたびにやるほうは、どんどん巧妙になっていくわけで。
なぜかっていうと、可の部分と不可の部分の両面からの断罪が全然ないから、一般の人は事件全体の認識ができないんですよ。ただ「あれは危ない」って言うだけで。
俺が思ったのはね、オウム真理教の事件のときに、宗教関係者はなんで沈黙してるんだろうっていうのがね、すごく不思議だったんですよね。
○福田 自分たちは違うという程度の話しか出ないですね。
●前田 それしかないんですよね。だから、彼らから見て、オウム真理教の宗教としてよかったところはなにか、なにが若者を惹きつけたのか。そして駄目だったところはなにか、間違いはなにかを言わなければならないと思う。でも間違いは言うんだけど、いいところは言わないんですよね。知ろうともしないし。
○福田 そういう意味では本当に意識が狭まっているというか、最初にお話しいただいた、言葉だけっていう問題点にもつながってくるんでしょうね。そのへんの「感度」というか「視野の広さ」というものを、どうやって取り戻すかということが問題になる。
そして偶然、中西輝政京大教授のインタビューでも教育回復の大切さについての指摘があったのですが、前田さんも先ほどおっしゃったように、今の日本において教育が最も重要な一つの鍵であることは間違いありません。
今日は、ありがとうございました。