【第3回 世代の断絶を憂える】
●前田日明 今の日本は、いろんな議論が低次元ですよね、すごく低次元ですね。
○福田和也 それはたぶん、最初におっしゃったように、例えば会話が言葉だけに、要するに情報伝達だけになってしまっている。でも、人間が伝えあったり、理解しあったりするっていうのは、感情とか雰囲気とか趣きとか、言葉にならない部分も含められるものです。
それが本当に痩せ細ってしまっていると思うんですね。そういう痩せ細り方と、今おっしゃったような視野の狭さ、あるいは着眼点の歪みなどは通底しているんでしょうね。
●前田 そうですね。あともうひとつは、世代という部分で断絶しているじゃないですか。これは、一見別になんともないように見えるんですけと、俺、いまいましきことだと思うんですよね。
なんでそういうことを思ったかというと、自分たち格闘技界の話をすると、例えばブラジルの連中は、ブラジリアン柔術というのを武器にしているわけです。世界中で、総合格闘技系で頑張っているんですけど。
彼らは、どんな有名な選手でも試合をやったら、僕は誰々先生の弟子で、その先生の上にはこういう先生がいて、その先生にはこういう先生がいて、って自己紹介します。今もそういう先生たちとの交流があって、いい試合をしたらおほめの電話があるし、悪い試合だったら「大丈夫か、練習に来い、俺が教えてやるから」って言われる。
ちゃんとそういうつながりがあるんですよ。世代間の断絶がないどころか、すごくきちんとつながっているんですよね。
じゃあ日本はどうかっていったら、自分のことも関わってくるのでちょっと恥ずかしいんですけど、それぞれ分裂して、それぞれ自分がお山の大将になって、お互いに言い合っている。上の世代と下の世代がお互いに拒否しあって、たもとを分かって、腹を割らなくなって。
でも結局、それがなんで駄目なのかというと、経験が伝わらないんですよ、次の世代に。どんな技術であろうと、技であろうと、言葉であろうと、経験を伴わないものって本当の知識にはならないんですよね。だから、先人が経験してどうだったか、いろんな試合でその技術を試してどうだったかっていう蓄積を若い衆に伝えたら、若い衆は、そのスタートラインがまた違ってくるんですよ。
それなのに、今はすっかり分離しちゃって。そういう状況は日本はちょっと遅れていますよね。俺たちだけじゃなくて、聞いてみると他のところでもけっこうあるみたいです。世代論だとか新人類だとか、言うのはいいんですけど、そればかりで終わってしまって、断絶を断絶のままとして固定化するのは、どうなのかなって思うんですよね。
○福田 確かに断絶という問題は看過できません。世代間の持続がないというのは、本当に恐いですよね。これは文芸の世界もそうで、昔みたいに作家の先生に弟子入りして作家になれとは言いませんが(笑)、一種の師弟関係というのは大切だと思います。
文芸の世界では僕など江藤淳先生が師匠だったし、その存在はやっぱり大きかったですよね。昔の住込みといった関係ではありませんから、これぐらいの付き合いで師匠だと言うのはバカらしいなどと言われるかもしれませんけれど、でも例えば自分が学生たちと接していろんなことをするときには江藤先生、それと古屋健三先生という学問の方の師匠がいるのですけど、やっぱり自分が師匠にしてもらったようにしかできないんですよね。
師匠にしてもらって、それを学生たちに「君たち、僕はこういう風にするけれど、それは僕が江藤さんにこうしてもらって、古屋さんにこうしてもらって、こういう風に本を読んできたから、こうするんだよ」って言うと、彼らもその流れの中で、それをどういう風に理解していいかというのが分かるわけですね。
その江藤先生は文芸評論家としては、小林秀雄の弟子ですよ。そういう流れの中で、初めて自分の文章があるし、それなくしてポッと出で、さぁ文芸評論家でございなんて、そんなことはあり得ないんですから……。
小林秀雄がいて、江藤さんがいて、もちろんその反対側には、左翼のいろんな人間がいて。そういう中にいまの自分の文章があるわけで、そこをなくしてしまって、本当にひとりだけで「個人だ」って言ったって、ちゃんとした学問にも文章にもなるわけがありません。
●前田 そうですね。今の中国はいささか崩れてきたかもしれませんが、昔の中国では師匠を大事にしていた。それは経験を伝えるためですよね、後世に対して。経験を移さないと誤るんですよ。
○福田 やっぱり人間として狭くなってしまいますよね。
●前田 誤った自意識だとか、誤ったプライドだとかが出てくるんですよね。武田信玄は「人は石垣」「人は城」って言いましたけど、こういう状況で教育のことを誰も言わないじゃないですか。それはすごく恐い話なんですよね。
文部省の指導要綱も変わって、それを見てみたら、土日休み。それはいいですよ。でもね、各学年でやっていかなきゃいけない勉強の範囲が、すごく減らされているんですよね。それとともに、例えば高校ぐらいであれば、文系、理系って分けて、関係ないものは全部バッサリ切るでしょう、必要ないからという理由で。
でも、確かに専門外の勉強って必要ないのかもしれないですけど、これだけ新しい技術が生まれている、新しい技術を生んでいかなきゃいけないっていう時代においては、自分の認識を広げるために、専門外のことを勉強するのはすごく大事なことになると思うんですよね。学校でやっているのは、専門外のことに取り組むための基礎ですよ。基礎的な教養を学校で覚えるだけであって。文部省はそれを勘違いしてバッサリやっちゃうんですけど。俺、応用力のない人間が増えるんじゃないかって、すごく恐いですよね。
一見関係ない数学にしても、自分も学生時代に「こんなの関係ないじゃないか」「関数なんかやってどうなるんだ」って思いました。でも、例えば哲学書を読んでいて分からなくて、その解説書を読むと因数分解的にどうのこうのっていう記述とめぐりあって、「あー、そういうことか」って分かったりするんですよね。
そういう認識の芽をバッサリとやっちゃうと、ただの1 セクションの、1 分野の、道具としてしか役に立たない人間ばっかりになっちゃうと思うんですよね。だから、もうちょっと文部省も、教育っていうものを繊細に考えなきゃいけないと思うんですよ。