闘士、前田日明氏が今、日本を憂えている。
日本が抱える病巣、そして、それにどう挑むべきか――
熱き思いを聞いた。(聞き手:福田和也)
【第1回 放任主義は間違いだ】
○福田和也 国として、国民としていかにあるべきか、各界の方々にお話を伺っています。
どうすれば、日本が強くなれるかということをお聞きしたいのですが。
●前田日明 教育なんですけど、教育は国家百年の大計と言いますが、日本のように資源のない貿易立国は人的資源の水準の高さを維持しないと失速する。まず、家庭においての教育なんですけど、放任主義っていうのは、はっきり言って、間違いですね。やっぱり親は子供に対して、おせっかいなほど関わらなきゃ駄目です。
よく「どんなときもほめなきゃいけない」っていわれますけど、叱るべきときには叱らなきゃ駄目です。怒らなきゃいけないときに、その感情を隠してほめる。子供にとっては不自然じゃないですか、そういう大人っていうのは。
人間が生まれてきてから、家庭の場でなにをいちばん認識するかっていうと、コミュニケーションの本質じゃないかと思うんですよ。そして人間のコミュニケーションって、言葉じゃないと思うんです。
例えば、俺の母親は、どんなに黙っていようと隠し事をしようと、俺のことを一目見たらそれが分かりますよ。反対に、子供のころ、父親は俺にとってすごく恐い存在で――母親もそうでしたけど――父親が帰ってくるなりパッと、今日は機嫌がいい、機嫌が悪い、というのが分かりました。それで機嫌がいいからなにかをねだろう、機嫌が悪いからおとなしくしていようと、機嫌を見ながらやりましたよね。
今、一般的に、そういうふうに人の様子をうかがって行動するのは人間としてよくないことだって言われるんだけど、でも、よく考えてみると、そういうことって人間と人間の交際や関係に必ず関わってくると思うんですね。
言葉ひとつとっても、相手がどういう表情や態度でその言葉を発しているかによって、認識がまた全然違ったものになる。コミュニケーションが取れない今の子って、言葉以外のところで発せられる人の情報っていうのを全然読み取れないんですよね、みんな。だから、言葉だけを必要とするんですよ。
でも、人間のコミュニケーションっていうものには、言葉だけじゃなくて皮膚で感じる、肌から発せられるものってありますよね。その部分も含めてやれば100パーセントのコミュニケーションなのに、50パーセントをちゃんとわきまえていないから、理解できない。それでイラついて、「もっと言葉をください」と言うんだけど。結局、その言葉っていうのは、ただの「言葉」でしかないんですよ。コミュニケーションではないんですよね。
言葉っていうのは、あくまでも道具であって、その道具をなんのために使うかっていうと、今、その人が感じていること、こうやって表情に表れていること、それらを端的に、効率よく、相手に知らしめるためですよね。言葉はそのために使っている記号じゃないですか、信号じゃないですか。
ただの信号であるということを、みんな忘れているんですよね。本当はそれを家庭だとか、幼稚園とか、小学校ぐらいの教育の場で教えなきゃいけないんですけど。
それから、もうひとつ。いまの大人っていうのは、感情を隠しすぎるじゃないですか。でもね、俺たちは家庭にいても、学校にいても、例えば自分の友だちの喜怒哀楽、先生の喜怒哀楽、親の喜怒哀楽、兄弟の喜怒哀楽、自分のおじいさん、おばあさんの喜怒哀楽、みんな、たちどころに分かるんですよ。さらに親っていうのは、子供のことが本人よりもっとよく分かるんですよ。そういう中から、人間どうしっていうものがすごくよく分かってくるんですよね。
なのに「ほめなきゃいけない」「感情を隠さなきゃいけない」と思って、いつもニコニコして分かりやすい顔で向かい合って……。
そういう風に育てられた子供は、いざ社会に出てみたら、そんなことじゃ生きていけない。社会の実像は、勿論そうじゃないんですよ。まったく理不尽なものなんですよ。分からないものなんですよ。分からないながら手探りでいろいろ見て、感じていかなきゃいけないんですよ。自分のセンスを伸ばして、嗅ぎとっていかなきゃいけないのが、現実社会の実像なんですね。
出社拒否だとか、30、40歳になっても、まだ家に閉じこもって、社会と接点を持てないっていう人がいっぱいいますよね。
○福田 今、たくさんいますね。
●前田 そういう人たちって、放任主義と称する教育の犠牲者だと思うんですね。
あとひとつは教師ですよね。勿論全員ではありませんが、社会で一般に行われている放任主義を歓迎して、アメリカ的な、自由な民主主義を尊重しようとかなんとか言う一群がはっきりいるわけです。それをやった人たちにはね、いろいろ言い分はあると思うんですけど、でも今、現実にこういう結果が出ている以上、それは間違いだったと言わざるを得ないんですよ。
各家庭においてある程度、情操教育がなされた子供たちが行く学校に関して、たまたま、なんとなく読みたくなって読んだ小林秀雄の本にこんなことが書かれていたんですよね。
昭和30年代後半ぐらいの文章で、ある教師からの投書が引用されているんですよ。その若い教師が小林秀雄のファンで、ファンレターを送ってきたというんですけど。その中に、日本の教育はこのままでいいんだろうかと嘆いている文章があった、と。それを全文引用しているんですよね。
読んだらね、小学校のホームルームの風景ですよ。議題は「校舎の中を走らない、廊下を走らないようにしましょう」。そうしたら、日教組出身の教師が言うんですよ、「なんで学校の中を走っちゃいけないんだ?」って。生徒は「それは周りの人に迷惑だからです」と。
それで先生が「なんで走るのが迷惑なんだ。君たちは、まだ若くて、元気が余ってて、走りたい。そういう運動したいっていう衝動があるんだから、それは自然なことじゃないか。それは神が与えたことだから、それを規則でどうのこうのっていうのはおかしいんじゃないか?」って言うんですよ。
「いや、走ったらうるさくなって、勉強している人に迷惑です」「その人が、走ってうるさいから勉強するとかしないとかいうのは個人の問題だ。そういうことで勉強への集中力が欠けるなどといって、目的意識を他人によって削がれるっていうのはただの言い訳で、要はその人のやる気の問題じゃないか」という感じのやりとりが書かれていて。
なぜ廊下を走っちゃいけないかっていう討論をしているときに、教師がどんどん反論して、生徒の意見をどんどん妨害していく光景なんですね。若い教師はそのホームルームを見ながら、なんと愛情の無いことをしているんだろうと思ったって書いているんです。小林秀雄も、まったく同感だって書いて。でも、今の日本の社会を見ていると、俺、その小林秀雄の文章に象徴されると思うんですよ。