【第2回 「ルールはルールだ」】
―― 私は日本人は「信用」という点においてかなり水準が高いと思っていて、おそらく多くの日本人もそう思っているでしょう。けれどこうやってお話をうかがっていると、世界全体の資本主義のルールから見ると、実は日本人というのはあんまり「信用」の部分がきちんとしていないのだろうかと心配になったのですが(笑)、資本主義のルールから見ると日本人の「信用」についての感覚は微妙にずれているのでしょうか?
木村剛 ずれていると言うか、おそらく「信用」という観念がじつは希薄なのだと思うんです。ちょっと文化論的になるかもしれませんが、昔から言われていた定型的な話でいくと、日本というのはコミュニティ社会、村社会である。村の中では厳然たるルールがあって、文章としては書かれていないけれども、村長(むらおさ)がいてきちんとそれを守らせていたというふうな社会があったわけですね。
ただしルールは、その村で適用されるルールでしかない。村の一歩外に出た場合には村の外のルールがあるにもかかわらず、「村の外のルール」よりも「村の中のルール」が大事であるというような考え方でずっと通してきた。人によっていろんな見方がありますが、そういう状況は、戦後においても「会社主義」として維持されてきたわけです。
「会社の外のルール」よりも「会社の中のルール」が大事だった。会社のルールや会社内のヒエラルキーは絶対で、会社における信用が一番大事なものとして守られてきた。そのために一歩外に出た社会ではどう言われようが、「会社を守ることがとにもかくにも美徳である」というような傾向がありました。
でもそれはそれで、筋が通っていたと思うのです。すくなくとも、日本のコミュニティ、なかんずく会社の中での「信用」というものが維持されてきましたから。ところがいま、二つのことが同時に起こっていて、「信用」が危機に瀕している。
一つは、諸外国からルールを強制される圧力が非常に強くなってきたということ。日本のマーケットが解放され、全世界の国々と競争している関係のなかで、「日本は日本だ。外国は関係ない」という、これまでの理屈が通りにくくなってきた。コミュニティとしての独特のルールだからというだけでは、異文化の人達を説得できなくなってきている。
そういう状況にもかかわらず、これまでの行動原理は変わらなくて、「うちはうちだよ」という方式でやろうとしている。このギャップが出てきていると言えるでしょう。これでは、対外的な「信用」は得られません。
もう一つは、コミュニティである会社の中に確実にあったと思われていた「信用」の体系が、どんどん揺らいでいるということ。この方がもっと深刻だと思います。その兆候は、会社に対する忠誠心がどんどんなくなってきたということです。
日本のコミュニティの中でルールが成り立っていたのは、コミュニティの危機に直面したときに、最後の最後は村長(むらおさ)が一切合切の責任をとって、「自分が腹を切るから皆を救ってくれ」と言って切腹し、コミュニティを守るために自分を犠牲にしてきたわけです。
トップの自己犠牲というディシプリンが、コミュニティの一体感を保ち、平時の規律を保ってきた。これは日本のコミュニティのいいところだったと思います。ところが、最近の日本企業のトップは「こいつらを差し出すから自分だけは助けてくれ」と言ってしまう。あるいは「自分は悪くないんだが、こいつらの能力が劣っているからリストラする」というわけですから、村の中の秩序がガタガタになってしまった。トップに対する「信用」が崩れてしまった。要するに、会社の中の「信用」が崩れてしまったわけです。
こうしてコミュニティの中のルールがガタガタになっているところに、コミュニティの外部からいわゆる資本主義のルールが入り込んでくるものですから、そのギャップが色々なところに出てきている。そういう意味で日本は、従来コミュニティ内にあった「信用」を失いつつある状況下で、対外的に新しい「信用」を求められているという状況なんだろうなと思います。
そういう意味では、「日本はユニークだ」と言われている間はまだ良かったというべきなんでしょうね。ほら昔、「日本はディファレントだ」という日本異質論があったじゃないですか。
―― それ、10年ほど前流行りましたけどね。
木村 ところが、いまは全く流行らないでしょ。つまり、ないんです。日本の中身がなくなっちゃった。
―― 異質でもない(笑)。日本のアイデンティティがある意味では自己崩壊してしまったのかもしれないという、その話はちょっと置いておいて、資本主義のルールというのは簡単に言えば「アングロサクソン型ルール」に今は事実上なっています。このアングロサクソン型ルールで、特に日本人が理解していないことはどのあたりになると思われます?
木村 「ルールはルールだ」ということですね。
―― それはどういうニュアンスでしょうか。
木村 つまり日本の場合は「決まっているけど、まあいいじゃん」というふうな話がたくさんありますよね、現実問題として。
―― かわいそうだからとか、そごうは潰せないとか。実際、もう少しで預金保険機構がそごうに対する貸出債権を放棄しそうになりましたよね。
木村 銀行は金貸しなのだから、お金を貸した以上は返してもらわなくてはいけない。これはルールですよね。正確に言うと契約です。破ることは許されない男と男の約束なんです。女と女でも、男と女でも、そうなんですけど(笑)。ところが、「そんなこと言ったって、世の中は複雑なんだ。そごうも苦労している。かわいそうじゃないか。いいじゃないか」という話になりかけたわけでしょう。
小さな村社会で、やっていることが他に誰からも知られないような社会だったらいいかもしれないけれども、今や村長(むらおさ)がお金を貸しているのは、そごうという伝統ある大きな家だけではなくて、他の家にもたくさん貸しているわけです。あるいは、そごうよりも弱くて助けが必要な人たち、一生懸命汗をかいて爪に灯をともして借金を返している人たちがいる。
この人たちの立場に立てば、何でそごうだけ依怙贔屓するんだと思うのは当然ですよね。そんな簡単なことに気がつかないで、「まあ、いいじゃないか、俺は村長なんだから」と、預金保険機構は思っちゃった。
―― 日本国内だけでやっているのなら、「今回はお宅にちょっと損させるけど、またいずれどこかでカバーするから」みたいなことでも、あるいは三方一両損みたいな話でもいいかもしれないけれども。でもアングロサクソンの場合には、そういうことではなく、ルールとして決められたものはきちんと守るものなのだと言うか……。
そういえば「ディシプリン」という言葉があるじゃないですか。とりあえず「規律」と訳すとして、この単語は実は日本語に翻訳できないんだという話を昔聞いたことがあるんですが、そういう規律に対する厳格性みたいな点において、アングロサクソンの資本主義から見ると日本はすごく甘くて、特に金融のようなある意味ではルールだけで成立しているシステムの中で特に露骨にその弊害が出ているというような感じなのでしょうか?
木村 そういう見方もできると思います。「お金」というのはさきほど申し上げたように、得体の知れないよく分からないものなんです。そうだからこそ、「お金」に関するあらゆる経済行為は、約束事で縛り付けて、きっちりと捕まえておかないと中身がなくなってしまうわけです。だから、「お金」に関してはものすごく厳しいルールがたくさんある。そのルールを守るということを前提にみんな経済活動をしている、という形になっているわけなんですね。
「お金」に関する取引は、すべて「信用」が基盤になっていますので、こうしたルールが破られるということは、根本のところを崩すということになります。そういう意味で、「お金」のところ
――すなわち、金融のところ――に、規律の問題が先鋭的に出てくるんですね。