今月末に、『諸君!』で連載していた『地ひらく ―石原莞爾と昭和の夢―』が単行本として上梓されることになりました。
このように申しあげると、年に10冊近くの単行本を出版しているくせに、何を今さら、と云われるかもしれません。
まあ、たしかにそうなのですが『地ひらく』は、ここしばらくの本のなかでは、特別なものなのです。私のキャリアのなかでも、結節点になるものだと思っています。
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撮影 : 福田和也(以下同)
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『地ひらく』は、『諸君!』誌上で、足かけ6年にわたって、連載をしてきました。私の著者としてのキャリアが12年ほどですから、ほぼその半分を、この連載とともに書き、過ごしてきたのです。枚数も、連載時で2,100枚、それを単行本にするにあたって削っても、1,800枚という長大なものになりました。これまで、もっとも厚い本でも800枚程度でしたから、ずば抜けたボリュームということになります。
その上、取材や資料収集も広範なものでした。石原が足を踏みいれたところにはすべて行く、ということをポリシーにして、シベリア鉄道に乗ることだけは果たせなかったものの、日本国内はもとより、満州から中国本土、ヨーロッパ各地まですべてに赴きました。
取材の折に、いくつも印象的なことがありました。満州国の元首都、新京(長春)の偉容。旅順の二百三高地の峻厳さ。なかでも、驚かされたのは、ベルリン郊外の旧都ポツダムで、石原の下宿先を探しあてたところ、その下宿は、第二次大戦の終結を期した、ポツダム宣言が発されたチェチリエンホーフ宮の、間近だったのです。
第一次世界大戦後の世界秩序としてのベルサイユ体制を破壊した、満州事変の首謀者であり、立案者である石原莞爾が、その世界戦略の基礎として欧州戦史を学んでいた部屋が、第二次世界大戦に終止符をうつべく、敗戦のドイツにトルーマン、スターリン、チャーチルが一堂に会した場所と指呼の間にあったのです。このことを、帰国してから江藤淳先生に報告すると、先生は感慨深げに「歴史には、そういう必然的な偶然があるんですよ」とおっしゃっていました。
資料も、膨大な量になり、学生に手伝ってもらって文献目録をつくったのですが、かなりの項目数になりました。それでも、校了後に遺漏がいくつもあったというような状況になってしまいました。6年間、毎月30枚を、多くの資料を駆使しながら書いてきたわけですが、実際には書くこと自体は大変ではなかったのです。
周囲から、よく書けますねと云われることもたびたびありましたが、休まずに(実際には、掲載誌に他の論文を書くために数度休載しましたが、目次に名前が載らない純然たる休載は一度もありません)出来たのは、事前の準備をある程度しっかり出来ていて、机の前にすわれば、2、3日で1回分が書けるという体制が、早い段階に出来ていたからだと思います。もちろんその環境の整備には、『諸君!』の優秀きわまる編集者の協力にあずかることが多かったのですが。
こうした連載を続けていくことの困難というのは、資料の扱いや整理、執筆上の構想といったものではなく、むしろ「気分」の維持にあります。維持というと解りにくいかもしれませんね。私は、ほかの文章の仕事も多数抱えています。そうした仕事の間に、連載作品、とくに『地ひらく』のような歴史にかかわる作品を書くという姿勢に迅速に切り替えて、作品の中の「気分」を維持すること、つまりは書き手がその作品の中に入っていくことが、何よりも難しいのであると思います。
『地ひらく』は、この手の連載としては珍しいほど多くの反応が読者から継続的に寄せられてきました。非常にありがたいことです。自分の書いた本が、何年かしてから人から誉められたり、現在に比べると前はよかったなどと云われるのも、嬉しいものですが、著者としてはどうしても不審の念がぬぐいきれないところがあります。若い人ならば別ですが、読もうと思えば読めたはずの人が、その時には何の反応もせずに後になって評価すると、その人はきっと今の私についても、過去その当時の私について盲目だったのと同様に何の認識もないのだろう、と思ってしまうのですね。けれども、書きつつある時期に評価をするということは、評価する側もリスクがあることですし、その点でありがたいし、励まされます。
手前味噌に陥りがちですが、多少とも反響があったことを自分なりに分析してみると、昭和史を扱った類書にくらべると、格段にヨーロッパ史やアジア史について、大きな紙数をさいており、世界史的な視点から、昭和の日本を、そして石原莞爾を見ているということに尽きるのではないかと思っています。
もちろん、このような形で世界史的な視点を導入したのは、私の視野が広いということではありません。石原莞爾という人物、彼が構想をした世界戦略の全体像を反映しようとした時に、日本にとらわれない視野がどうしても必要になったのです。石原に要請をされ、石原が実現しようとしたのは、日英同盟が廃棄された後に、迷走を続けていた日本に、世界戦略を構築するということでした。
ユーラシア大陸に合衆国を作るという石原の満州政策は、アジアに大きな自由交通・交易圏を創造することで、アジア全体の求心力を高め、その中枢に日本を位置づけるというものでした。もちろん、石原の構想は実現しませんでしたが、石原のスタッフたちが満州で行った実験は、戦後日本の経済繁栄の基礎となりました。官民共同の工業育成や、都市計画、高速交通といった満州発のシステムは日本の成功の後に、アジア各国に取り入れられ、現在も機能しています。
わが国の、混迷は、いよいよ深くなりつつあります。個々に指摘すべき点は、うんざりするほどありますが、本質的な点は、やはり日本としての世界戦略がないこと、世界戦略を議論する土壌すらがないということでしょう。世界戦略がないところには、国家戦略などがあるはずがありませんし、世界戦略、国家戦略にたいする意識がないところに、企業戦略もなにも育つはずがないのです。
そして同時に、戦略意識は、歴史に、それもイデオロギーとは対極にあるような、身も蓋もない人間の営為にたいする、地政学的、パワー・ポリティクス的な歴史観と、その土台の上での思惟によってしか育まれません。
わが国の不毛荒廃に対抗する、戦略的思考にかかわる議論をするために、『地ひらく』はかなり役せられるのではないか……と書くと、やはり手前味噌になってしまいましたね。