私は、これまで、柳氏の小説に対してきわめて批判的であった。そのエセー、特に自伝的エセーによくあらわれている、書き手としての稀有な資質を認めつつも、明瞭に自伝的な結構を打ち出した処女小説『石に泳ぐ魚』をのぞけば、その作品は彼女の資質に見合うものであると思われなかったのである。
どのような点で、私は、柳氏の作品を認めなかったのか。それは氏の作品があまりにも頑な、かつ硬直した「小説」の概念、もしくは規定の枠組みに沿う形で、その鋳型に合わせて執筆されているためであった。その点で、私は、より自在に書かれている氏のエセーを小説よりも遥かに文学的価値が高いものとして認めた。
私の指摘に対して、氏は強く反発した。氏にとっては、小説はエセーなどとは比較にならない崇高なものであるという主旨の反論に、私はむしろ氏における小説信仰の強烈さを改めて確認した思いがした。
『命』はこれまでの柳氏の、きわめて範形にとらわれた小説とは、明確に一線を画した作品である。長年のパートナーだった東氏の病変と、長子の出産という事態の渦中で書かれたために、構造的に作者は作品にたいして強い恣意を働かせることができず、結果として作者の資質が十全に出ることになった。
この作品において、柳氏の小説は韻文から散文へと移行したと云えるかもしれない。その点で私は、作家柳美里の新しい出発を心から祝福するとともに、今後の作品に刮目して臨みたい。