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Part1
覗き見って好きですね

Part2
フィクションにしか関心がない

Part3
その気になりやすい質なんです

Part4
導くべき場所はありません

Part5
ミステリーは懐かしい友だちに会う場所

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portraite
(3/全5回) 2000.12.08  

【Part3 その気になりやすい質なんです】
―― そうか。前に、お書きになるときには、まず最初に題名から決めるっておっしゃっていたじゃないですか。題名があって、例えば『神様のボート』っていう題名があってつくっていくというときには、『神様のボート』という言葉が一つのイメージになっていくんですか?

江國香織 ほとんどの場合はタイトルが先ですが、もちろん、違うこともあります。先にできるときというのは、私の中では起承転結もまだなく、主人公もないまま、でも、物語のトーンとか雰囲気はあるんです。

 例えば、『神様のボート』だったら、そのときには、うーん……言葉にするのが難しいんだけれど、とても絶望的な、でもすごく、すごく本気の恋愛小説のイメージがあって。そのイメージがとても強いので、そのあとで実際のストーリーとか、登場人物をつくるときに、消去法ができるんですね。「こういう話ではない」、「こういう女ではない」、「こういうふうにはしたくない」って。

 なぜか消去法ですね、必ず。「絶対これだ」、「こういうことを書くんだ」というふうにはいかずに、「こういうのではない」、「こういうのではない」っていうふうにして、そのあとができてゆくという感じですね、たいてい。

 だから頼りになるのは、最初に思い描いた小説のイメージ。いつも、登場人物よりも、出来事よりも、もちろんテーマよりも、一冊の小説としてのイメージが最優先になってしまうんです。

―― いろんなタイプの書き手がいますよね。「今、社会的にこういうことが問題になっているから、これをやろう」とか、あるいは「構造的に三人称を使って、時間構成をこうして」っていうようなことから始まるということは、まずない?
 
江國 まず、ないですね。ただ、『ホリー・ガーデン』を書くときには、三人称を使うということを決めました。『ホリー・ガーデン』以前は、私は三人称がものすごく苦手だったんです。

 それから、どんな人もたぶん多かれ少なかれそうだと思うんですけど、好きな言葉、使いたい言葉と使いたくない言葉があるために、形容の仕方が似てくるじゃないですか。
 それを、私らしいというふうに誉めてもらえる場合もあるんだけれど、同時に不本意でもあるんですよね。

 自分でも分かるんです。任意の1ページを開いて、そこだけで自分の文章だと分かる、記憶ではなく分かってしまう。読者にもたぶん分かるだろうって思うことが、不本意だったので、いろんな言葉を使いたい、意味を優先させようというふうに、『ホリー・ガーデン』のときには思ったんですね。

 それからもう一つ、ディテールは大事なんですけど、自分が好きなものばかりに偏らせるのはやめようと思いました。ケーキが出てくるとしたら、自分の好きなケーキばかり出すのではなくて、自分が好きじゃないケーキをすごく好きな主人公っていうふうに、『ホリー・ガーデン』ではわりといろいろ、最初に自分で課題をつくったんですけどね。

―― 小説的にはものすごく変わってても、そのテイストが変わらない人って、いるじゃないですか。例えば、村上春樹さんなんていうのは、小説の構造としては、初期と今とは全然違うけれど、でも、登場する男性はだいたいタイプが似ているんですよね。真空管のアンプで、50年代のジャズを聴いてる感じというのは、ほぼ一貫していて(笑)、ちょっとぶれてもね、そんなに変わらないですよね。女性にちょっと恐れを抱いて、ちゃんと自分で家事をやるのが好きな男性……。

 ところが、江國さんの場合、登場する女性がころころ変わっていく。それはたぶん、さっきおっしゃった、自分の好みと違うケーキを出そうということだと思うんです。単純なようでいて、それをやる作家というのは結構少ないですよねえ。

 そのイマジネーションって、難しいんじゃないかな。例えば、自分はモンブランが嫌いだけれども、モンブランが好きな人がいて、好きな人は自分とは入れ合わない人間だから、入れ合わない人間として書くというならともかく、江國さんが書かれる場合は、モンブランが好きな人間に同化して書かれるでしょ? さっきは「参加する」っておっしゃったけど。

江國 そうですね。とっても変なことを言うようなんですけど、私、二人でいわゆるツーショットの写真を撮ると、顔が似ちゃうんですよ、もう一人に。
 
―― 恐いですね、それ(笑)。
 
江國 あのね、その気になりやすい質なんだと思うんです。
 顔が似るというのは、雰囲気ですよね。すごく賑やかな人が、ビッグスマイルで写っているときには、私も何か陽気な感じになって写ってしまうとか、シリアスな人の横では、シリアスになっちゃうような。その気になりやすいというのが、かなりあるんだろうとは思いますね。

 だから、『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』には9人も女の人が出てきますけど、その都度、その都度、書いているその人に、どこかは参加しちゃいますから。

―― あの作品のすごいところは、作品の構造として扱う軽重はあっても、人間の書かれ方自体には軽重がないじゃないですか。
 
 ないんです、そうですね。
 
―― 普通は、それが出ちゃうんですよね。
 
江國 人がいて、場所があって、ある程度の時間があるところには、必ず物語ができるから、私はそれを書きたいと思っているんですね。
 でも、さっきおっしゃったみたいに、「今、こういうことが問題になっているから、これを書きたい」とか、例えば同じ恋愛小説でも「こういう状況に陥ったときの恋愛を書きたい」という、人と場所と時間以外のものを書こうとする作家にとっては、そのことに対する重要性によって人の軽重ができてくるのかもしれないと思うんですけど、私にはそれがあまりないんでしょうね。
 だから、たとえすごく小さな役の人でも、同じぐらいの重さはあるんですね。

―― それから、テーマ以前のこととして、本質的には皆、自分のことを書くのが好きじゃないですか。自分か、自分に似ている人を。江國さんにはそれを感じないですよね。
 逆に、頭でつくった理知的な小説を書く人は、自分のことを書くのではなくなるけれども。そうではなくて、わりと自然体で書く人っていうのは、自分のことを書くのが好きだということは多いですよね。
 
江國 そうですね。
 
―― でも、江國さんからは、そういう情熱をほとんど感じない。
 
江國 そうですか? それはとても意外ですね。
ときどき、それこそ死ぬほど恥ずかしいと思うときがあります。自分のことを書いてるみたいで。全然違うんですけど、ね。でも、「こんなこと書いてどうするんだろう?」って思う……。

―― 自分のことを書くっていうのは、要するに、自分のことを自分のこととして書くということですよ。「わたし」というのが、その作者本人だと誰も疑いようがないように書くんですよね。
 
江國 ええ。それはそれ、なんですよね。でも、そうではなく、「これはフィクションですよ」という形で、例えば私とは立場も違う、年齢も違う女の人を書いていても、そこに自分がちょっとでも参加してしまう以上、自分の告白を書いているみたいな気がするときがあるんです。「そんな日記みたいなものを書いて」というふうに、恥ずかしく思うときはありますけどね。

(Part4 へ続く)

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